詩篇137篇

137篇 知っておられる

おはようございます。私たちの気持ちの深みを感じる神を知ることが、信仰の成長の一歩です。神を知っていると言いながら、神を知らない人と同じように、いつもいつも人に吐き出す。そこに成長はありません。人の心の深みに共感される神がおられることに目を開かれたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

1節、「バビロン川のほとり、そこに私たちはすわり」とある。この詩は、捕囚先で起こった出来事を記している。しかし実際の作詞年代はわからない。というのも詩人は、捕囚帰還後に、そこで起こった出来事を回想して書いたとも考えられるからだ。

この詩は何か、戦争の傷跡、悲しさを感じさせる。最後は憤りすらかきたててくるところがある。いわゆる詩篇の中では「のろいの詩篇」と分類されるものである。

バビロニヤに捕囚として連れ去られた時に、余興としてエルサレムの歌を歌えと絡まれる、こうした経験は、日本がアジアの国を占領した時にもあったのかもしれない。あるいは逆に日本が戦争に負けて抑留された時にもあったのかもしれない。日本人が戦争をした、という歴史はあるが、戦争で蹂躙した、敗退した、という内容は、学校教育で教えられることはない。しかし、アジアを旅すれば、その戦争の傷跡は明らかである。ともあれ、敵国の人間に絡まれ、遊びの余興に、大事な心の歌を歌えと求められる、ことがあった。しかも、イスラエル人にとってそれは、自然の美しさを、人間の情愛を歌うものではなく、自分たちが全能と考える神の栄光を歌う歌である。敵国に征服され、奴隷とされている状況で、全能の神を賛美する歌を歌わせられるのである。しかし神に対する信仰が変わっているわけではない。むしろこのような惨めな結果は、神に対する不従順の故であり、神のさばきによるものであった。神が否定され、自分たちの愚かさも思い知らされる、そんな屈辱の中から、毒が出る。「幸いなことよ、おまえ(敵)の幼子たちを捕らえ、岩に打ち付ける人は」(9節)。暴言に等しきことばであるが、その心の悲しみ、戸惑いがわからないわけではない。

2.感じてくださる神

さてこのような人間の激しい感情の吐き出しがあからさまに記録されるのは、神がそれをよしとされるよりも、その深さを神が感じておられることを証するためなのだろう。つまり、詩人は、毒を吐きながら、その痛みを神が感じていることを理解したというわけだ。彼らの恥を、憤りを、その深さで受け止められたことを感じたのだ。

黙示録の七つの教会へのメッセージを読むとなるほどと思うことがある。エペソの教会に対して、イエスは、「わたしは、あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている」(2:2)と語られた。しかし原文は「知っている!あなたの行いと、労苦と忍耐を」の語順である。つまりイエスが知っている事実に強調がある。同様にイエスは、スミルナの教会に対しては「知っている!あなたの苦しみと貧しさを!」と言う。さらにペルガモの教会に対し「知っている、あなたの置かれた環境を!」と言う。神は、私たちの行いも、苦しみも貧しさも、そして置かれた状況も、皆知っている!わかっている!というわけだ。

この詩は、単純に読めば、最後は尻切れトンボで、憤りをかきたてるところすらある。しかし、そむき出しの極限的な祈りの瞬間、詩人は全てを悟ったのだ。あたかも、ハンナが一心不乱で祈る中で、何かを得て、「その顔は、もはや以前のようではなかった」(1サムエル1:18)と記されたように。人の悲しみ、怒り、憤りを、その深みに共感される神を、詩人は悟った、というべきだろう。ただひたすら、神に自分の気持ちを打ち明けるべきことを教えられる。毒を吐くならば、人ではなく神に吐くべきで、神はその気持ちの深みを理解される。神は知っておられる。私たちの側に立って共感される神を知り味わう時を持ちたいものだ。

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