14篇 主の勝利を願う
<要約>
おはようございます。ダビデは愚か者に対する主の勝利を祈っています。しかしその愚か者は、誰なのか、パウロはこの詩を引用して、それは全人類皆なのだ、と解釈を施しています。このように新約的光を照らすならば、ダビデに批判されている愚か者は、実はこの私であると認めざるを得ません。けれども大切なのは、その愚か者に対する神のあわれみと恵みです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
ダビデによる、とあるが、ダビデはこの詩をどのような状況で歌ったのだろう。一説に、アブシャロムが謀反を起こし、勢力を増し加えた時、あるいは、ダビデの生涯には記録のない非常に不運な出来事のあった時と考えられている、具体的にはよくわかっていない。
ただこの詩篇は、もともと、そのように私的に作られたのが、後に公用に使われるものとして書き改められたのだという。実際この詩は、一般的に民族的な内容を持った詩篇第二巻に収められた詩篇53篇とほぼ内容が同じである。原語で読み比べてみると14篇が神の名に固有名詞の「ヤハウェ」を用い、53篇は普通名詞の「エロヒーム」を用いる違いがある。また、5-6節の記述がより結果的な形で綴られている。だから詩篇53篇の方が、侵略や包囲の脅威などの国家的危機に合わせて改訂された、というわけだ。
2.愚か者の確信と結果
ダビデは言う。愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。「愚か者」は、ヘブル語でナーバール、それは、知能的な愚かさではなく、意図的に神に心を閉ざし、逆らう者を意味する。「攻撃的なつむじ曲がり」という解説もある。彼らの特徴は二つ。一つは、神の律法をあざけること、「性根が腐っており、忌まわしいことを行っている」(1-3節)。そして神の民を抑圧することである。新改訳第三版では、「彼らは、パンを食らうように、わたしの民を食らい、主を呼び求めない」であったが、新改訳2017では、「彼らは、私の民を食らいながらパンを食べ、主を呼び求めない」となっている。文法的に、パンを食らうは、完了形の動詞が使われ、私の民を食らうは、分詞形の動詞になっている。つまり、「パンを食らったように、私の民を食らっている」ということで、「食らっている」状態に詩人の関心はある。それは「あなたを知らない国々の上に、あなたの御名を呼ばない諸氏族の上に、あなたの憤りを注いでください。彼らはヤコブを食らい、これを食らって滅ぼし、その牧場を荒らしたからです(エレミヤ10:25)」と語っているエレミヤの思いに通じるものがあり、主を呼び求めない愚か者は、まさに、主の民を食らい、これを食らって滅ぼしつくそうとしている、状況を描写しているのである。それは、弱い者が食い物にされていき、滅ぼしつくされていく絶望的な状況である。だが、神は、生きておられるというべきなのだろう。正しいことをなさる神は、この状況を見過ごしにされることはない、それが著者の確信である(6節)
2.パウロの視点
ただ、興味深いことは、初代のキリスト者はもっと違った読み方をしたことである。パウロは、ローマ書にこの詩篇を引用し、「愚か者」をある特定の人々ではなく、全人類として解釈し引用している(ローマ3:10-12)。つまりこの詩は、初代のキリスト教徒には、ダビデの特定の状況でも、国家的に抑圧された状況でもなく、全人類の罪の状況を想定するものとして読まれたのである。全ての人がこの「愚か者」に値し、そこから救われる必要がある、と読んだのである。
となれば、後半、パンを食らうかのように私の民を食い尽くす者は(4節)、まさに私たち自身であり、主を呼び求めない者は、まさに私たち自身である、ということになる。確かに、私たちは、神に敵対し、神が正しい者と共におられることを知り、神を大いに恐れた者である。そして、弱い者を踏み躙ろうとして来たものである。しかし、7節「ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように」そのような私たちが、神に救われたのである。そのような私たちが、神の恵みの中に入れられたのである。
このようにして読めば、この詩篇は、単純な勧善懲悪を語るものではない、と言えるだろう。人はどうしても、神を既に信じている自分たちが正しく、神をまだ信じない悪しき者は、裁きを受けるのだと対立的に物事を考えやすい。だが罪の深みの中に生きている私たちがこの世にあって、完全な聖潔の中に生きるなどありえないことだろう。どこか「愚か者」である性質を引きずって生きているのであり、「救われた罪人」である現実を覚えながら、自分の救いに感謝し、同じ罪人たちの救いを願わなくてはならないのである。パウロは晩年、自分を罪人の頭であると語ったが、私たちはまさに愚か者の頭であると言わねばならない。そして、愚か者の頭として、特定の人々ではなく全人類の素晴らしい救いを祈る者でありたい。