141篇 夕べに働きの実をささげる
おはようございます。故もなく憎しみを向ける悪者を相手にしてはなりません。自分の窮地や苦悩にでもなく、悪者の悪行や繁栄にでもなく、ただ神に目を向け、淡々と一日の終わりには、その日の自分の働きを評価し、祈りの香をささげる、動じない歩みをしたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈と背景
2節、「私の祈りが、御前への香として、手を上げる祈りが、夕べのささげ物として立ち上りますように。」この詩篇は、初代教会において夕礼拝のために用いられてきた、と言う(ちなみに朝ごとの祈りは詩篇5篇となる)。「香」はヘブル語でケトレス、いけにえの香ばしい香りを意味する。また「夕べのささげ物」はヘブル語でミンハス・エレブ、「夕方の穀物のささげ物」を意味する。つまり一日の労働の実を振り返り、主にお献げする姿勢がそこに現されている。大切なことである。一日の労を終えて、主の御前にどんな働きをしたか。主に献げられるような働きをしたか。主がその働きの実の香ばしい香りを受け入れられ、よしとされる働きであったのか、考えさせられるところではないか。朝ごとに、夕ごとに、祈りの香を炊き主を仰ぐ、そんな習慣が初代教会にはあったが、それは儀式以上の意味を持つ。私たちの生き方の姿勢を、朝ごとに、夕ごとに探られる、そんな時である。
2.「朱」ならぬ「主」に染まる
さて、3節より、著者は誘惑から守られるように、と祈る。彼が感じている誘惑は、悪人の道に倣うこと(4節)、また、苦言に耳を傾ける柔軟さを失うことである(5節)。ある時代劇の中で「そんな事をなされては、お殿様になられた時に、傷がつきますぞ」と、嫡男が身を慎むことを諭されていたシーンがあった。考え方は似ている。私たちは神の子であり、やがて神の国に迎え入れられる王として扱われている。私たちがこの世で、なすあれやこれやは、しばしば私たちの人生を汚すだけで、ことに、困難にあって自暴自棄になることは、他ならぬ自分自身を傷つける。いつでも人は、慎み深い歩みを必要とする。神を信頼し、祈りを絶やさず(2節)、自分の口を守り(3節)、そして、悪者に迎合したり歩調を合わせたりすることのないように心がけ(4節)、日々自分の働きの実を主に献げられるように歩むことだ。持つべきは、愛情をもって真実を語り、一緒に神の道に歩む友である(5節)。5節最後の一行を直訳するなら「なぜならなおも私は祈っている。悪の中にあって」となる。「朱」に染まらず、「主」に染まることを願う詩人の信仰的な祈りがある。
3.悪者は滅び去る
6、7節は、意味が掴みにくい。本来ヘブル語の写本本文が種々乱れ翻訳不能とする者もいる。「岩のかたわらに投げ落とされる」は、古代の死刑法を意味する。文脈からすれば、悪者どもの指導者が裁かれることを言っている。つまり、反対する者たちの指導者に突然さばきが下る時、反対する者たちは、自分のことばに耳を傾けるようになる、そこに真実があるとわかるようになるからだ、ということなのだろう。
7節は、その指導者たちが義人たちにした悪行を表現している、と理解できる。つまり、主に従う者がどれほど厳しい迫害を受けていたか、それは、木こりが木を切る時に木くずが飛び散るように、義人たちの骨が地上に散らされるような状況であった、という。そのような中で、詩人は主の守りと(8,9節)、正しい裁きとを(10節)祈っている。そこには、蔓延る悪の中で、妥協せず忠言を受け入れながら歩む純真な詩人の姿が、そしてさらに迫害されても、なお神と共に歩もうとする詩人の信仰が語られている。自分の窮地や苦悩にでもなく、悪者の悪行や繁栄にでもなく、ただ神に目を向け、淡々と夕べになれば自分の働きの実を思いつつ、祈りの香をささげていく。悪い者は自ら設けた罠に陥って滅びていく。悪い時代は過ぎ去るものだ。いつでも神に期待して歩ませていただこう。