142篇 神を信じるなら道は開ける
おはようございます。何かあれば、ラインやメール、電話で、人にSOSを求めてしまう。神を信じたなら、もうそのような習慣から卒業していきましょう。祈りこそ、私たちの最もよき助けです。神こそ、我が助けという信頼を深めてまいりたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈と背景
表題は、ダビデのマスキールとある。マスキールは、「指図する」「教示する」「理解する」を意味するヘブル語の動詞「サーカル」に由来することばで、教訓的な歌と理解されている。また、ダビデ自身によるというよりも、ダビデ風に詠まれた歌とする学者も多い。「彼が洞窟にいたときに」というのは、アドラムの洞窟(1サムエル22章)か、エン・ゲディの洞窟(1サムエル24章)のいずれかである。サウル王迫害下の苦境にあって詠まれた歌となる。これまでにも、逃亡中の歌としては、7、52、54、56、57、59篇があった。表題からして57篇と一対であるという説もある。
さて、一読、著者の孤独感がひしひしと伝わってくる歌である。4節、だれ一人、顧みてくれる者もいない。逃げるところもない。自分がどうなろうと、誰もおかまいなしの状況だ。確かにそんな時も人生にはあるものだろう。人生の重荷を一人で負い、しかもその荷が重すぎると思われることがある。一緒に重荷を担ってくれる人がいなくても、一言温かいことばに触れたい、ぬくもりが欲しい、けれどもそんな一言すら期待もできない、ことが。そのような苦境の中で、ダビデは心から叫び、慰めと助けを求めている(1,2節)。
2.ただ主に向かう
それは主こそ、この先、自分がどのように進めばよいかを知っておられるお方だからだ(3節)。人によっては助けを求めれば、共に考えてくれる人はいるかもしれない。しかし、人の助けには限界があるものだ。一緒に悩んでくれたとしても、解決の道筋までには至らなかったりする。しかし、神は、「道を知っておられる」神にこそ解決がある。人ではない。私は、牧師としてこの確信が、一人一人の中に形作られることが、本当に信仰者としての成熟であり、教会の成熟なのだと考えている。誰もが、わかったようなことを言うが、実際には、何かあれば主ではなく、人に助けを求めている現実に気づかないでいることがある。そして、人に過大な期待と要求を寄せるために、人や、教会に失望することが起こる。自分の悩みに本気で気遣ってくれる人などいない、と孤独感を深めるのは、期待する対象を間違っているからなのだ。
主こそ、窮地に追い込まれた時の隠れ家、避け所である(5節)。迫害する者は、「私よりも強い」(6節)。私はかなわぬという現実がある。ダビデの経験は具体的で、日常性から断絶された逃亡の日々であった。それはある意味で特殊な経験でもあるが、共感しえないものでもない。使徒パウロは、晩年にこんなことを語っている。「私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました」(2テモテ4:16)。牢獄に囚われたパウロを多くの仲間が見捨て、離れ去り、パウロは忘れ去られていった。しかしそのパウロも言う。「しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。」「主は私を、どんな悪しきわざからも救い出し、無事、天にある御国に入れてくださいます」(2テモテ4:17、18)。
神は生きておられるし、神は良くして下さるお方である。窮地に追い込まれた者の叫びを聞いてくださるお方である。敵対する者、そして圧倒的に強すぎて自分の手には負えない敵から救い出してくださるお方である。持つべきは、人ではない主に対する信頼と信仰であろう。誰も自分を助けることがなくても、神が良くしてくださる、とまっすぐ神を見上げてみよう。絶望してはならない。自分によくしてくださる神に対する信仰をしっかり持って、神に期待しよう。神を信じる時に道は開けるのである。