詩篇143篇

143篇 神の御手の業を静かに考える

おはようございます。連日コロナ感染拡大のニュースが流れていますが、このような時にこそ、主のみ心を探りつつ、深く祈りを献げてまいりたいものです。諸国の政治家たち官僚たちの上に主の助けがあるように。感染者の方々に癒しがあるように。事態が収束するように。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

表題には「ダビデの賛歌」とある。またギリシャ語の七十人訳聖書には、「彼を息子が追っていた時の」とあり、執筆背景は、アブシャロムの反逆の時と推測されるが、この詩篇もダビデ風に詠まれた歌ではないか、と考える学者もいる。七つの悔い改めの詩篇の最後のものである(6、32、38、51、102、130、143篇)

まず詩人は祈っている「あなたの真実と義によって、私に答えてください。」裁判においては裁判官の誠実さに期待が寄せられるように、人間の力の及ばぬ問題については、これをお取り扱う、神の誠実さに期待せざるを得ない。ただ、現実問題として、神に対する期待感が弱められることがある。どんなに待っても、神が適切に動いてくださらない、と思われることがある。「敵は私のたましいを追いつめ、私のいのちを地に打ちつけ、死んで久しい者のように、私を闇にとどめます。それゆえ、私の霊は私のうちで衰え果て、心は私の中で、荒れすさんでしまいました。」(3,4節)。心が折れてしまうことがある。

2.神の御業を思い巡らす

そこで重要なのは、著者が「昔の日々を思い起こし、あなたのすべてのみわざに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考え」(5節)」ていることである。神が自分に何がおできになるのかを思い出すのだ。自らの経験において、また、キリスト者の歴史において、さらには、人類全体の歴史とその創造において、神は何をしてこられたのか、を。もはや心は限界を過ぎ、行き詰まっている。いや滅びかかっている(7節)。もう手遅れだ、と思う状況にあってこそ、冷静になって、合理的に主の可能性を考えてみるのである。そうすれば、そこに主への期待が生じる。神は、約束を守られるお方で、神に偽りはない。神のことばは真実であり力がある。

3.ただ神の助けを祈る

ただ詩人は弱り切っている。その中で、詩人は、三度神に手を引いていただくように心から願っている。「行くべき道を知らせてください」(8節)私たちにはそれぞれ固有の道がある。ヨハネにはヨハネ、ペテロにはペテロの道があったように(ヨハネ21:21-22)人が神に招かれる道は、それぞれ固有である。また、「あなたのみ心を行うことを教えてください。」(10節)と祈っている。どうしても私たちは、自分の満足を求めやすい。自分の気持ちが楽になること、あるいは自分が浮かばれることをまず考えやすい。しかし、それもまた空しいことである。最後に著者は、「平らな地にわたしを導いてくださるように」(10節)と単純に祈る。行く先がわかっても、進む力がない、と思うこともあるだろう。必要なのは、今日一日を進む、乗り切る命である(11節)。いや、その一日を進む自分の前に立ちはだかる障害を取り除いてくださることである(12節)。それほどまでに、神任せでよいのか、と思うところであるが、詩人は、そう祈っているのではないだろうか。

私たちは神の最善をはかり知ることができない。それはちょうど、イエスが、ラザロに会うのをわざわざ遅らせたことが理解できない弟子たちと同じである。しかしイエスはご自分のなそうとしていることを知っておられ、ご自身の栄光を現わされた(ヨハネ11章)。私たちが考える最善以上に、神の栄光が現わされる結末があるだろう。主よ、あなたの栄光を現わしてください。あなたがなそうとしておられることを、私の暗闇の内になしてください、と祈らせていただこう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください