146篇 主に望みを置く
おはようございます。優れた部下と無能な上司の組み合わせ、これが日本の組織の特徴と言われることがあります。確かに、信頼すべき人を間違えたということはあるものでしょう。世において信頼すべきは、目に見えない聖書の神を置いてほかにはありません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈と背景
この詩篇から、最後の150篇までは、ハレルヤで始まり、ハレルヤで終わる、いわゆる「ハレル詩篇」と呼ばれている。七十人訳では、「ハガイとゼカリヤのハレルヤ」と表題づけされており、これまでの流れからしても捕囚期後に作られたと考えられている。
さて「主をほめたたえよ」と著者は呼びかける。複数形で、会衆全員への呼びかけである。一時的な気分によらず、生涯に渡って(2節)ほめたたえよ、という。それは、主こそが、私の人生の根源であり、私の人生の支えであり、導きだと確信するからだ。
3節「君主を頼みとしてはならない」、唐突な印象もないではないが、人間よりも、主を頼りにせよ、ということだろう。確かに、どんなに偉大な指導者であっても、どんなに頼りに思える隣人であっても、人の助けはあてにならないことが多い。一説に、捕囚帰還後エルサレムの城壁を再建した際に、敵方がユダの貴族と通じて妨害工作を行ったことが背景となっている、とされる。7節「主は捕らわれ人を解放される」はそうした背景を受けての信仰的確信を述べたものとなる。
となれば、そこには、理解し難い世界が広がっていたことになる。皆が、公益のために働いてくれていると思っていたリーダーが、まさか、偶像崇拝者の異邦人に便益を図るとは思いもよらずにいたのが、上層部は、そのような民族的確信をよそに腐敗し、有り余ったお金をお互いに分け合い、安逸をむさぼり合っていたことである。それは、世俗の社会で起こっている問題ではなかった。いわゆる信仰共同体の上層部に起こっていた問題である。人間というのは、実に罪人以外の何物でもなく、頼みにならないものである。そのことを心に留め、いつでも在野に下る精神を持っていないと、道を誤ってしまう。そして腐敗した権力に意図せずにして加担し、同じように滅び失せることになる。
2.主に望みを置く
ぶれない人生に必要なのは、主に望みを置くことだ。それは、信仰の世界だけのことではない。信仰とは関係のない一般社会においても、いつでも主の目に見えない招きと、主の足跡に従う歩みをすることである。いつでも人生の主とすべきは、創造の主、「天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた方」(6節)である。耳があっても聞こえない、目があっても見えない、口があっても語ることのできない偶像の神ではない。目には見えないが、確かに、ヤコブという個人に自分を表し、エジプトで虐げられたイスラエル人を解放し、盲人の目をあけ、かがんでいる者を起こされた神が生きておられる。
そのお方こそ、真の正義を貫かれるお方である(6節)。「目に見えない者たちの目を開け、かがんでいる者たちを起こされ、正しい者たちを愛し、寄留者を守り、みなしごとやもめを支えられる」お方である。主こそ、正しい統治をなされるお方である。だから、教会はもちろん、会社や学校、どんな組織にあっても、目に見える権威をも支配しておられる神に目を向けることだ。そして、目に見えない権力である主がこの地上でなさることに思いを馳せ、その意味を熟慮することである。つまり上司が変わり、今度こそ、と期待するのではなく、変えてくださった神の深い御心を思うことである。そして、神の御心がわかれば、その新しい秩序をどのように過ごせばよいのかもわかる。そして人に振り回されることもない。神こそが、人の一生の歩みに目を配り、配慮し、支えてくださるお方である。神は死んだ者の神ではない。生きた者の神である。いつでもこのお方を信頼し、賛美しつつ歩みたい。