147篇 主の配慮に感謝
おはようございます。出エジプト、これは聖書で繰り返される主題です。捕囚からの解放もまさにそのとおりです。それは、ただ過去にそのようなことがあった、というのではなく、あなたに神は同じようにされる、それが神の配慮であり、愛である、というわけでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈と背景
2節「主はエルサレムを建て、イスラエルの散らされた者たちを集める」明らかに捕囚の歴史が振り返られている。城壁の再建が終了し、城門のかんぬきがおろされ(13節)、平和が回復された(14節)、いわば、ネヘミヤ12:27-43にある城壁奉献式を背景とする歌であるとされる。
著者は、主に心を向けて主の素晴らしさを詠う。主は捕囚の民を顧みてくださった(2節)。主は悲しみにあった者たちを「癒し、彼らの傷を包まれる」(3節)神は救いの神である。また「主は星の数を数え、そのすべてに名をつけられる」(4節)。主の全知とその支配が思い巡らされる。また、アブラハムへの契約が思い起こされる。アブラハムは、子どもも無く年老いて、跡継ぎを生み出す可能性もないまま、この先どんな祝福があるだろうか、と考えていた。そんなアブラハムに神が言う。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。あなたの子孫は、このようになる」(創世記15:5)。アブラハムは主を信じ、主はそれを彼の義と認められたとある。何も望み得ないところに、神の言葉が望む。ただ信ずべき神の約束のことばが与えられる。そして神の全能の御手が、私たちのために動かされる。「われらの主は偉大であり、力強く、その英知は測り知れない」(5節)。その主の無限の力と知恵は、私たちのために注がれる。
2.神は目に留められる
だからこそ、「感謝をもって主に歌え。立琴に合わせて、われらの神にほめ歌を歌え」(8節)となる。神を称えるのは、神の救いの業のみならず、神の配慮の故である。神は「獣に、また、鳴く烏の子に食物を与える方」(9節)。神は、心配られる方であり、それは、獣に、鳴く烏の子にまで及ぶ。ならば、まして、人にはである。たとえ誰かがあなたを屑のように見なそうとも、神の配慮に漏れることはない。実際、神は、人間が尊ぶものを尊ばれない。神は能力主義、成果主義ではない(10節)。むしろ神は、心のつながりを大事にされる。「主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる」(11節)。ただ神に心から叫び求める者の声に神は目を留められる。だからこそなしえたエルサレム再建であったのではないか。古代イスラエル人の確信は深い。そして主を賛美する。
3.最良の小麦で満たされる
ギリシャ語の七十人訳聖書では、12節以降は、新たな別の詩篇となり、日本語の聖書とは区分が異なっている。12節「エルサレムよ、主をほめ歌え」、奉献式にあって、著者は今の祝福を味わっている。エルサレムの再建は、確かに自分たちの汗の結晶であっただろうが、今ある平和は、主が、そのように地に命じられたためである。安全も、健康も、繁栄も皆、神が上より与えてくださるものだ。奴隷とされた捕囚の民に、征服国に交渉し、自分たちの努力で失われた地を回復し、再建することなどあり得なかった。しかし、神は、彼らの叫びを聞き、その御手を動かしてくださった。「光よあれ」と言えば、光ができる。神が命じられると、不可能性の中に可能性が生じる。神のことばは、速やかにあり得ぬことを実現する。神の命令がすべてである。18節、「主がみことばを送って」すべてを成し遂げられる。
16、17節の雪、氷、寒さは、裁きを象徴する。冬も春も神に造られたもの。神に裁かれた民が、神のみことばによって回復されたことを詠っている(18節)。ユダヤ人の歴史は、今の私たちに対する事例である。主に期待し、感謝を持って歩ませていただこう。