15篇 神と共に住む
<要約>
おはようございます。聖書を、ただ、人の理想として読むのではなく、神の人に対する思い、語り掛けとして受けていくことが大事なのでしょう。ヨブに懇ろに語られた神は、私たちにも同じようにしてくださるはずなのです。そうであればこそ、その人の霊的な品性も、形を整えるのではなく、心の内から深まるものでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
この歳になると、と言ってよいのかわからないが、毎朝、椅子に座り、聖書に向かうのが何か、楽しみというか、一日の初めにあるべきところに納まる、そんな感覚をまず持つところである。そして、椅子に座るや否や、期待する。今日は、どんなことが私の糧となるのか、出てくるご馳走を楽しみにするかのような心境だ。
この詩の背景はよくわからない。ここでダビデは、神の家を愛し、神の家にとこしえに住まうことを願っている。幕屋に住まう祭司のように、いつでも神の元にあってお仕えしたい、と考えている。それは、敬虔に神を愛する者なら、全て共感しうる願いというべきだろう。ダビデは、神のもとにあってお仕えし続けるための条件をあげている。
2.神の家にふさわしい者
第一に、それは正しく誠実な人生を送る。神と人との前での正しさを意識して歩むことだ。
第二に、それは具体的に正しいことばを語る。心の中の真実を語り、人をそしらない。ヘブル語の意味は「告げ口」である。それは、あれこれ事柄を詮索し、周囲に言いふらすように歩き回ることをイメージする。悪口よりも中傷というべきものである。神と共に住まう人は、他人の名誉を傷つけるようなことを、陰で噂話にしたりはしない。人がいようといまいと、その唇が語ることに変わりはない。人が今は後悔していること、触れられたくないようなことはもちろんのこと、事実かどうかわからないことを推測で話して、しゃべり散らしたり、繰り返し取り上げて、人を困らせたり痛めつけることをしない。ただ愛を持って、人の徳を高める言葉を語ることである(3節)。
第三に、神の側に立って物事を評価しようとする。神に捨てられた人、つまりは神に背いた人をさげすむ、とは、何やらパリサイ人的であるが、ここで言っていることは、自分のスタンスを明らかにすることだ。自分と他人を比較して、私はあのような輩とは違う、というのではなく、私も同じ弱さを持ち同じ失敗をする可能性があるが、神の恵みに信頼し、神の願っておられることに立ち続けようとする意志を明確にすることである(4節)。
第四に、約束を守る。物事を引き受け、契約を交わしたのであるのなら、後で厄介な問題が起こって、経済的な負担が大きくなったとしても、あるいは時間的な融通が利かなくなり窮地に立たせられたとしても、その責任を放棄しないことである(4節)。人は都合が悪くなれば損得を考えて行動する。しかし、神と共に生きる人は、何が正しいかを考えて行動する。それがたとえ、損をするようなことであっても、神の義が現される行動を取るのである。
第五に、お金の面で卑しくないこと。「利息をとって」は、「高利をとって」を意味する。高い利息をとって、負債者を窮地に追い込むことをせず、わいろによって義を曲げるようなことをしない。人をお金によって苦しめたりはしない、ということだろう。
このような人は、ゆるがされることがない。安全で、平穏で、神とともにある祝福を得る。確かにそうであろうと思うが、実際にこうあり続けるのは難しい。難しいが、そのことで整えられることが霊的な成熟なのであるし、そのために、イエスの十字架の励ましがあると言えるだろう。
というのも、朝の恵みの時は、自分が聖なる者であることを確認するときというよりも、イエスの十字架にある罪の赦しの中で、神の子として扱われ、神の幕屋、聖なる山に歓迎されていることを覚える時だからである。そこでは、繰り返し、おおよそ神に似つかわしくない品性をもった私たちが、罪を告白し、罪の赦しを願いながら、キリストの十字架の遜りと共に、頭を垂れて神に近づくことが許される。イエスがおられればこそ、こうした詩編も我が願いとして、このように引き上げてくださいと祈ることができる。この詩篇は、私たちのことばと行いについて、他人に対する関わり、約束やお金に対する感覚を吟味させるものであるが、イエスにつながればこそ、一つ一つ自分の心からの願い、今日の決意として告白されるものとなる。そして傲慢に陥ったことを恥じらったヨブに、懇ろに語り掛けてくださった神が、同じようにご自身の気持ちとして親切に語り掛けてくださることを味わうのである。ただ自分を厳しく見るのではなく、神の愛の中で、自身の魂に対する厳しさを失わず、自らを深く見つめなおし、神の語りかけに応じていく、これが求められていることである。