詩篇16篇

16篇 成熟した信仰

<要約>

おはようございます。ダビデの経験を歌にしているようでありながら、キリストの十字架においてこそ、完全にその意味を理解することのできるメシヤ詩篇の一つです。メシヤであるキリストを思い、そのキリストの足跡に従う、信仰者の歩みを進ませていただきたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.背景

「ダビデのミクタム」とある。ミクタムという言葉については、「苦しめられている」「攻撃を受けている」「金の」「隠されている」など様々な意味が推測されており、よくわかっていない。この詩篇は、サウル王による迫害(1サムエル26:19)を背景として書かれたと考えられているが、初代の教会では、使徒2:25-28、13:35に引用しているように、キリストの十字架の死と復活を預言する、メシヤ預言として受け止められていた。

そのような背景から考えるなら、この詩篇は、最も厳しい状況においていよいよ明らかにされるべき信仰の本質的なものを語るもの、と言うことができるのかもしれない。その要点は何か。

2.信仰の要点

第一に、ダビデは、「私の幸いはあなたのほかにはありません」と、神を自分のすべてであると認めている。私たちの心は、どこに向かっているのであろうか(1,2節)。神が自分の安心となり(1節)、幸いとなる(2節)。これが信仰者を信仰者として証しする、しるしというべきものだ。神ではない具体的なもの、つまり人のつながりやお金のあるなしに安心感を見い出すのではない、そのようなものを備えてくださる神にこそ安心感を見出せることである。

第二に、ダビデは、まことの神を求める敬虔な者たちとの交わりにこそ、喜びを見出している(3節)。4節との対比で言えば、偽りの神々を求め、偶像崇拝する者たちとの分離が、まことの信仰者を証しするものと言えるのだろう。ただ、今日的な問題は、同じ神に礼拝をささげる、賛美をし祈りをささげる、その形こそ似てはいても、本当のところ、内的な面で、何か違いを感じる人たちがいたりすることだろう。信仰の軸がどうも人間的なところにある人と、聖書にしっかり立とうとしている人の違いを感じたりすることがあるものだ。キリスト教信仰をしているといっても、実際、その中身は様々である。「心から神を畏れ、敬う人々の仲間に加わりたい」、そのような思いは、真の信仰者のしるしというべきものだ。

新改訳と新共同訳では、二行詩、三行詩の解釈の違いがあるようだ。5、6節の間を分ける新改訳と、分けない新共同訳の違いがあるように思う。だが、意味的には、5、6にはまとまりを感じるところがある。それは、第三に、信仰者が何を所有しているのか、を考えさせる。信仰者は、しばしば何も所有しない者であるかもしれない。この世的に見れば貧しい者であり、根無し草と思われるようなものかもしれない。しかし、神を所有しているのである(5節)。かつてイスラエル人が、約束の地カナンの土地に入植した際に、部族ごとに土地分割が行われた。その際、レビ族は相続地を与えられず、神ご自身を分け前とされた。彼らは、主に仕える者であるから、地上的なものではなく、霊的な分け前があるとされたのである。「測り綱は、私の好む所に落ちた」測り綱によって測り出された土地の分け前は、まさに自分が望むとおりのものであった。つまり、神が私にとっての最高の相続財産であるし、最高の分け前である、ということである。

だがそれが何になるのだろうか、と思う人もいるだろう。パウロは祈る。「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように」(エペソ1:18、19)。神を嗣業とする素晴らしさを、私たちはいよいよ悟らねばならないし、それを誇りにする、その内的確信こそが、信仰者を信仰者として証しさせることになるのである。

3.信仰の喜び

そうなれば、自然に、神をほめたたえる心が与えられるのであるし、神の助言は私を生かし(7節)、神ある故に私はゆるがされない(8節)となるだろう。神と共にある事それ自体に最高の喜びを見出すのである。信仰を持ったら、神がかり的になり、人は自由を失うということはない。信仰をもったら、何かの戒律に縛られて、窮屈な人生を生きるということもない。

むしろ、神は私たちに選び取るべき幸いの道を示し、助言し、自分自ら何をすべきかを悟る、と言うことが起こる(7節)。そして、今この現在のみならず、未来に対する確信を持つこともできる(9節)。信仰者には確かなるいのちの道がある、神は、私たちを死人の中に置き去りにすることも、私たちが墓の中で朽ち果てることも許されない。神は命の神である。神は私たちを生かし、私たちに光を与えられる、という確信だ。うむ、私はそこまではいけない、と思うことがあるかもしれない。だが、この未来の確信を初代教会の使徒たちは、メシヤ預言として引用した。この詩篇がキリストの十字架の死と復活を意味するものとして理解した。聖書をキリスト中心的に解釈する一例である。ダビデは、サウルに命を狙われる中で、象徴的に自分の復活を確信したのかもしれない。しかし、その完全な意味は、キリストにおいて理解されるのである。確かに、「あなたの御前には」「あなたの右には」という下り、真にこう語りうるのはキリスト以外にない。信仰の模範はまさにキリストにあり、キリストに従うことが全てである。今日もキリストの弟子として練られ整えられることを願うこととしよう。

 

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