19篇 わが岩、わが贖い主よ
<要約>
おはようございます。今日の詩篇は、どのような状況で書かれたのかは、よくわからないものがあります。しかし、大自然の中で、神を思い、人の小さきを思う、そして罪人が神に罪赦されてあることの祝福を思うことの大切だを教えられるところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.自然を通して神を知る
神を知る手段が大きく二つある。一つは神が造られた被造物、つまり自然であり、もう一つは神のことばである聖書である。
自然はそれ自体、神の栄光を物語る、神の傑作である。大空は、神がおられることを、ことばを発することもなく、昼も夜も静かに証している(2-4節)。自然を愛する日本人ならそれはよくわかるところだろう。ただ、それは、どのように神々しく、神的に見えようとも、神そのものではない。
当時は、太陽を神として崇める、そんな宗教心があった。しかし、太陽もまた神が造られたものである。太陽は、神が定められた軌道を従順なしもべのように辿っているに過ぎない。(5節)。しかし太陽は、その灼熱の力を表し、神々しく天の軌道を闊歩していくが、神ではない。太陽は、神に与えられた秩序の中で、光り輝いているだけである。自然を見る時に、それらがいかに人の心を驚かせ、遜らせることがあっても、自然は神に代るものではない。
自然の中に、人は神を感じるが、自然と神は明らかに別物である。あらゆる被造物をお造りになった神にこそ、私たちは目を向けなくてはならない。パウロも引用して語る。「その響きは全地に、そのことばは、地の果てまで届いた」(ローマ10:18)。
2.聖書を通して神を知る
第二に、私たちは聖書を通して神を知る(7節~)。神のおきては完全無欠であり、私たちを守り、賢くし、喜びと光を与える。ダビデは、聖書の効用を語る。聖書はただ神について語っているわけではない。聖書は魂を生き返らせ、渇ききった心に命を注ぎ込む、神のことばそのものである。イエスは言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37,38)誰でも、聖書を読む者は、この命の効用を知らなければならない。聖書は、人生の教訓集のようなものではなく、主の「みおしえ」であり、「あかし」「戒め」「仰せ」「さばき」である。それらは、私たちの「たましいを生き返らせ」「賢く」し、「心を喜ばせ」「人の目を明るく」し、「慕わしく」「甘い」実感できるものなのだ。というのも、そして、完全で確かで、正しく、聖く、とこしえまでも変わらない、ものである。使徒ヨハネが黙示録19:2に「神のさばきは真実で、正しい」と引用したのは、このような観点からである。新しい天と新しい地の到来は、確かで、命とさばきをもたらす、確かな神の存在とその御業によるのである。
3.神に近付く人生
大切なのは、そのように神を認め、神に信頼し、神に従って歩もうと心が思っても、その神にはほど遠い自分がいる現実を想うことだろう。私たちは、その報いの豊かさを知っていても、実際には、神のみ心に沿って生きる力の乏しさを思うことがあるものだ。まさに私たちは罪人と言われるに過ぎない者であり、その罪の深さは計り知れない。だが、そのような数々の罪を捨て去って、神に近づこうとする人生が、求められているわけではない。クリスチャンになるということは、よい子になることではない。むしろ、「隠れている罪」すらあることをわきまえる必要がある。人間が自分の罪をことごとく知り尽くすことなどありえない。それほど不完全である自分を弁え、こう祈ることが大切なのだ。「どうか隠れた罪から私を解き放ってください。あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください」遜り、ただ主の御力が自分の人生に表されるように祈ることである。
罪を犯さないように、と神の裁きとのろいを畏れ萎縮して、世間体としてよいと思われるだけの人生を歩むのでなく、罪人でありながらも、神を避け所とし、神のみおしえと赦しの中に日々生きていくことの方が求められているのである。
「私の口のことばと、私の心の思いとが、~受け入れられますように」というのは、本当に遜らずに、語ることのできないことばである。罪からすっかり解放された生き方ではなく、日々、罪深きこと、そして罪赦されていることを覚え、神の深い愛を一層知り求める生き方の中にこそ真実がある。わが岩、わが贖い主よ、と主を呼びと求め、主を喜ぶ歩みをさせていただこう。