22篇 主は義を行われる
<要約>
おはようございます。22篇はメシヤ詩篇、ことにイエスの十字架の苦悩を物語った詩篇とされるものです。「主は義を行われる」これが結論であり、私たちの確信とすべきことでしょう。神は貧しい者の祈りを決して見過ごされることはありません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
詩篇22,23,24の三篇は、「羊飼いの詩篇」と呼ばれる。羊飼いであるイエス・キリストについて、預言的に語るものだからである。22篇は、羊飼いが羊のために自らの命を犠牲にし、死んでくださったこと(ヨハネ10:11)、23篇は、羊飼いが羊のために復活の命を持って世話をしてくださること(ヘブル13:20-21)、そして24篇は、羊飼いが羊のために栄光を受けて戻って来られること(1ペテロ5:4)が、預言されている。
ただ、この22篇に始まらず、既に見て来たように、ダビデの詩篇はイエスについて預言的に語ってきているところがある。後に使徒ペテロが、ダビデは預言者であり、イエスのことを予見して語った(使徒2:30-31)と語っているが、こうしてすでにダビデの時代に、メシヤの存在が意識されていたことが重要である。それは、同じ知恵文学であるヨブ記が、単に苦難の意味を説く書に終わらず、メシヤ預言的な内容を含み、神と人の仲介者の存在を示唆し、それがまた苦難の僕であることを示しているのと同じである。ともあれ、詩篇22篇は、69篇と同様に、イエスの十字架を語るものとして解釈されてきた。だから、前半には、福音書が引用する言葉も多い。イエスの十字架上の苦悩の叫び(1節、マタイ27:46)取り囲む群衆に嘲笑われ、毒舌を浴びせられた経験(6-8節:ルカ23:35、マタイ27:39,43)。イエスが渇き(14-15節:ヨハネ19:28)、手と足が釘付けにされたこと(16節:ルカ24:39)、イエスの着物がくじ引きにされたことである(18節:ヨハネ19:23-24)。全体的にイエスの身体的、心情的経験を詳しく描写されている。
2.イエスの敗北
実際、イエスは私たちの身代わりとなって、神の代りに罰せられたのであるから、手加減なしに、神に見捨てられる経験をしなくてはならなかった。完全に神に背を向けられ(2節)、もはや虫けらのごとく(6節)、助ける者もなく(11節)、死のちりの中に突如放り出されなくてはならなかった。
9節、「まことに、あなたは私を母の胎から取り出した方、母の乳房に寄り頼ませた方」とある。人が平穏無事にこの世に産まれ生きている、それ自体が、神の守りである。そして特段変わったことはないとしても、生まれてきてからこのかた、幼い頃から主を呼び求め、主の守りの中に日々が過ごされてきた、それはまさにイエスの生涯そのものである。
しかし、ある日その人生の歯車が逆回転する、人々には虫けら同然のように扱われ、神に見捨てられ、神に置き去りにされるかのような状況が起きたわけだ。人生の坂を転げ落ちる自分を、神以外の誰が救い出してくれるのか、と思う状況の中でただただ底知れぬ深さに落ちていくのである。それは、究極の孤独感であり、人間経験の最悪の苦悩である。このように、ここには十字架における内面的な苦しみと、肉体的な苦痛を語りつくすものとなっている。それはまさに失敗でもあり敗北と思われるものであるが、そうではなかった。それら起こるべきことがすべて起こらずにして、イエスの十字架の勝利はなかったからである。
3.イエスの勝利
イエスが十字架の苦悩を味わいながら、この詩篇に支えられたことは間違いない。そして、その苦悩すべてが、予め神に計画されたことである、と神の計画に対する信頼を抱いたからこそ、その絶望的な状況を乗り越えることもできた、と言うべきだろう。22節以降、もはや神に見捨てられたという訴えで始まった詩篇は、神に守られた平安を確信し、語りつくして終わっている。24節、「主は、貧しい人の苦しみを蔑まずいとわず、御顔を彼から画することなく、助けを叫び求めた時、聞いてくださった」この詩篇の後半は、神の誠実さを語り、神への感謝と賛美に満ちている。それは最悪の状況の中からの復活と勝利を語っている。たとえ死に至る苦悩があろうとも、神は決して貧しい者の叫びを聞き洩らすことはなく、必要な手立てを与えてくださる。そのあわれみ深い神に触れてこそ、「大いなる会衆の中での私の賛美はあなたからのものです」(25節)という告白に至る。
確かに、イエスの十字架は、近視眼的にはまさに見捨てられたと思うような状況であったかもしれないが、主は、イエスを復活させ、イエスが神のお気に入りであることを明らかにされたのである(8節)。「主が義を行われた」は、私たちの主の十字架の最後のことば「完了した」(ヨハネ19:30)に匹敵する。
世に苦しみは多い。しかしただ苦しむのではなく、苦しみの中にあっては、神が重要な信頼を託し、何かの働きを完成させていく途上に置かれていることを覚えたいものだろう。神が一人一人にこの時代に生きる使命を託され、イエスの御足跡を踏みゆくべき模範として残されていることは、間違いないことなのである。神は誠実なお方である。