27篇 勝利において信仰を表明する
<要約>
おはようございます。あまりにもこの世的な成功談に慣れていると、信仰の勝利もそのように考えてしまいやすいものです。つまり、信仰による勝利というのは、神のあわれみを信じるが故の勝利で、全ては神の誠実さによるものなのに、私たちは、自分たちの側に勝因があったと考えやすいのです。もしそうであれば、今日のような詩篇に感動を覚え、これを忘れまいとすることもないでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
ダビデは三度にわたって油注ぎを受けている。最初は、サウルの王としての失格が明らかとなり、新しい王の候補とされた時、ベツレヘムにおいてサムエルが注いだ(1サムエル16:13)二回目は、サウルの死後ダビデがヘブロンに移り住んだ時、ユダの人々がやってきてダビデをユダの家の王とするために注いだ(2サムエル2:4)。最後に、イスラエルの全長老がヘブロンにいるダビデの元に来て、ダビデをイスラエルの王とするために注いだ(2サムエル5:3)。この詩篇は、その中でも、最後の油注ぎの前に作られたと言われる。
ダビデは、段階を経てイスラエルの王として承認されていったのだが、その過程の中で、主に寄り頼む信仰を確立している。ダビデは言う。「たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。」(3節)。それは、神が私の光であり、救いであり、いのちのとりでだからだ、という点が大切である。つまり、自分が強くなったから、恐れない、動じない、というわけではない。ある意味で、ダビデは、サウルの執拗な攻撃により、身も心もズタズタであったのだし、陥落寸前であったと言うべきだろう。しかし、そのような時に、神は勝利をもたらしてくださったのだ。それは、ダビデにとって決して忘れてはいけないことであった。最も弱められている時にこそ、神の大きな御業を経験する形で、彼は王とされたのである。
だから4節、ダビデは一つのことを願っている。単純に言えば、神を礼拝する、神と共に時を過ごす喜びを味わうことである。というのも、「それは、悩みの日に、「岩の上に私をあげてくださるからだ(5節)」「今、私のかしらは私を取り囲む敵の上に高く上げられる(6節)」からだ。勝利を得させてくださる神を、心に深く味わうダビデがいる。
2.戦いの中に賛美がある
人の人生には悩みがなくなることはない。敵が霧散することもない。人生は戦いに次ぐ戦いである。しかし、魂には安らぎがあり、喜びがあり、ほめ歌がある。これこそ信仰の祝福である。悩みにあって、浮き沈み、動揺するのではなく、ますます、固く信仰に立ち、その信仰をしっかり告白できることが大切なのだ。世では得られない、信仰の安らぎの境地に立たせていただく、そこを通り抜けない信仰は、まだまだというべきだろう。
玉川の教会では、この所聖書通読道場なるものを始めたが、それは、単に知識的に修練するというのではない。やはりそこで、自らを省み、信仰的に訓練すべき課題を見出し、稽古に励むようなヒントを掴んで欲しいという意味でやっている。本気でこの時間を過ごしたら、変わらないわけがない。自身の人生に真の賛美が生まれるための時間なのである。
3.神が全てである
7-10節の祈りは力強い。王になっえ油注ぎを受けている者が何もこのような悲痛な思いで祈らなくても、と思われるところだろう。しかし、心身ボロボロになりながら、ただ神の御手に乗っかる形で王にしていただいたダビデにしてみれば、これから先も、神よ本当に助けてください、という思いが正直なところだったのだろう。10節、「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる」目に見える助けが助けとならないような時はいくらでもあるものだ。しかしそうであったとしても、信仰者は、主の助けに静かに期待を寄せていく。全ての梯子が外されるような思いにさせられたとしても、神への期待を失わないでいることだ。そして、すべてが神にかかっているかのように祈り、すべてが神にかかっているかのように生きていく。神にかける人生が、安らかな結果となることを、人はどこかで学ばなくてはならない。主の道の確かなることを人は、学び、これさえあればいいのだ、という確信に立たなくてはならない。
「待ち望め。【主】を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。【主】を。」(14節)。粘り強い忍耐をダビデは奨励する。神にかけていくことに粘り強くあることを、ダビデは苦難を乗り越える最良の策としている。強くなって王となった者ではない、弱いままに王とされたダビデの確信である。苦難にあって弱められている時こそ、主に信頼する歩みを導いていただこう。