28篇 主を呼び求める
<要約>
おはようございます。今日も主を呼び求めましょう。人間社会というのは複雑なもので、時に、信じられないような人物に出会うものです。愛想を振りまきながら、心では恐ろしい悪を図っているような人物に。あるいはそのような人物に窮地に立たせられるようなことがあるものでしょう。しかし、そうであっても、彼らに見合う罰が下るように、その悪の大きさにふさわしい報いをしてくださるようにと祈り、悪に驚き怪しむのではなく、率直に主の救いと助けと回復を祈ることが大事です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
この詩篇は、ダビデのいつの時代のものなのか、よくわかっていない。しかしダビデが悪者の手に陥った危機的状況にあった時、たとえば、アブシャロムの謀反の時ではないか、と考えられている。そのような危機的状況の中での祈りと祈りの応えに対する感謝を言い表すものである。
まずダビデは、神にそっぽを向かれたら、私は死ぬしかない。そしてもしあなたが私を助けてくれなかったなら、神は私を死後に望みのない敵と同じように扱われるだけのことだ、と神に助けを求めて叫んでいる。
4節まではダビデの祈りである。その要点は二つ。神が自分に語ってくださること(1-2節)。神がそれとわからぬ悪人に報復してくださることである(3-5節)。本当に人間というのは、見かけではわからず、愛想はいいのに、心では人を陥れ、抹殺しようという思いでいる者もいるものだ。そんな悪人にと私を一緒にはされないでください。むしろ、彼らに見合う罰が下るように、その悪の大きさにしたがって罰を重くし、報復してくださるように、というわけだ。実に率直な訴えである。ダビデの必死な思いが伝わってくる。
2.主は私の力、私の盾
それが5節からはがらっと調子が変化する。ダビデの心には感謝と喜びが生じている。神は彼の声を聞いて、実際に彼を助けたのだろう。これがこの祈りの中で起こったことなのか、あるいは祈った後で、救いが起こり、その続きを付け加えたのかはわからない。しかしいずれもありうる。
というのも、祈っても状況は何も変わらないが、確かに神に心のうちに語られて、心落ち着くことがある。人は、祈りの中で神の平安と喜びを頂くことができるのだ。祈りの中で、「ほむべきかな、主。主は私の願いの声を聞かれた」と告白しうることがある。たとえ私たちが喜ぶことができない状況にあれ、また自分の内に喜びがない状況にあっても、心から主に感謝が沸き起こる、神からの語りかけを受けることがある。聖書のことばを熟読する中で、いや祈り心で読み進める中で、神が聖書のことばを通して私たちの揺れる心に触れてくださることがある。そして、「主は私の力、私の盾。私の心は主に寄り頼み、私は助けられた」(7節)と過去の守りの記憶も合わせ思い起こして、もう一度主に望みをかけようと、心が力づけられることがある。
大切なことは、いついかなる時も、諦めずに、神にあるがまま事実を訴え、祈り、助けを叫び求めることである。子どもが親に、願うことが当たり前のように、私たちも神に当たり前のように、声をあげたい。
3.ゆずりの民を祝福してください
「どうか、御民を救ってください。あなたのゆずりの民を祝福してください」(9節)ダビデは、自らの救いが民の救いになることを覚えて祈っている。真に配慮あるリーダーであれば自然に祈られることである。民は、自分のものではなく「あなたのもの」である。神に群れを委ねられたことを自覚するリーダーであればこそ、自らが、立ち行くことを願い、また、神ご自身が一人一人を支えられることを願うのである。神の恵みは、確かに、彼のためであるだけではなく、民のためでもなければならないからである。単に個人的な救いを願う歌ではなく、職務を全うすることを願うために救いを願う、他者への配慮を持った祈りに教えられる。私たちの羊飼いである主に、信頼し、祈ることとしよう。