34篇 苦難をスマートに過ごそう
<要約>
おはようございます。34篇は、アクロスティックな詩篇。冒頭がヘブル語のアルファベットで統一されている、実に技巧的な詩篇です。それは記憶を助けるための工夫で、それだけ記憶すべき重要なものと言えるでしょう。実際この詩篇をしっかり心に留めるなら、私たちはどんな苦難もスマートに過ごせるはずです。神がよき方であることの確信をもって歩みたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
背景は、表題に明らかである。ダビデがサウルの追跡を避けて敵の陣地に逃れ込み、ガテの王アキシュ(アビメレク)に助けを求めた時のこと(1サムエル21:10-22:2)。若き頃の作である。その時ダビデは、本来神にこそ助けを求めるべきであったが、サウルの追跡の厳しさのために、具体的な人間の助けを求めたのである。確かに神はあらゆる時の助けであり、救いは主から来ると頭でわかっていても、実際の行動は、そのようにはならなかった時のことである。ダビデが、真に神の助けを求めることを学んでいくのは、このような時を通してであった、というべきなのだろう。いついかなる時も、まず神を仰ぐことを徹底して自分の基本姿勢としていく、それは、このような試練において意識化され、心にとどめられ、養われていく態度である。
ヘブル語でこのテキストを読むと、これがアクロスティック(アルファベット)詩であることに気づかされる。それは読者の記憶を助け、詩人の経験とその教訓をしっかり心に留めさせるための技法であり、工夫である。それだけこの詩は重要だということであり、確かに、その後のユダヤ人は、この詩の教訓を、忘れてはならないものとしてきたようだ。というのも、初代教会のペテロやパウロも、この詩の語る教訓を自らの手紙に取り上げているからだ。たとえばペテロは、1ペテロ3:10-12において、この詩篇の12-16節を引用している。主を恐れることを知恵の初めとし、主の前に誠実に歩み続けるダビデの生き方の原則を取り上げてユダヤ人読者に訴えている。また、パウロは、ダマスコのアレタ王の代官から逃れたエピソードをダビデの教訓に重ね、自分の弱さを誇り、神の御名を崇めることを語っている。
つまりこの詩篇は、ユダヤ人の記憶に刻まれ続け、繰り返し苦難において神に向かう基本的な態度を思い起こさせるものとして機能して来たのである。ということは、私たちにとっても同様のことが期待されることになるだろう。大切なのは、苦難に落ち入ったならば、人間的な解決策を巡らし、あわてふためくのではなく、むしろ落ち着いて神に祈り、求め、神の解決を静かに期待することである。ちょうど神の奇跡的な業によって奴隷とされていたイスラエルが、神の開かれた扉からエジプトを脱出していったように、神の働きに期待することなのである。
2.主はよき方である
だから、1節、「あらゆる時に」それこそ、どんな絶望的な状況の中にあっても、私たちは神に期待し、神をほめたたえることを心がけたいものだ。パウロが「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」(1テサロニケ5:18)と勧めているように、ダビデも「私とともに主をほめよ。一つになって、御名をあがめよう」と語る(3節)。そうすれば、そこにダビデの経験した確信、「私が主を求めると、主は答え、すべての恐怖から、私を救い出してくださった」(4節)が私たちにも与えられる。5節「輝いた」のヘブル語は、イザヤ60:5では「晴れやかになった」と訳されている。つまり、主をほめたたえ、主に期待することが、解放と喜びで心を満たす結果となることを言う。確かに何事が起らずとも、「主の使いは、主を恐れる者の周りに陣を張り」(7節)というダビデの経験を可視的に証し、脅かしの中で、主の圧倒的な勝利に安らぎを得たエリシャの在り方を忘れてはいけない(2列王6:15以下)。
ただ「味わい、見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを」(8節)。「いつくしみ深い」と訳されたヘブル語は、トーブである。一般的に「よい」を意味する。ヘブル語でおはよう、つまりグッドモーニングは、ボーケル・トーブ。おやすみ、つまりグッドナイトは、ライラ・トーブである。主は、良き方、主は、私たちに善を拒まれない、と理解すべきところだろう。それを味わい、見つめるのである。だから必ず、「幸いなことよ、主に身を避ける人は」とも言いうる。そして、主を恐れることだ。
3.人生一般の教訓とせよ
ダビデは、この自らの教訓を、次の世代に伝えようとしている(11節)。というのも初めからここに心を定めていれば、道化師のように振る舞い醜態をさらすこともなかっただろう。最初から主がよき方であると確信し、静かに時を待てば、必ず神はよきにしてくださったはずである。苦難の時はスマートに過ごせ。「あなたの舌に悪口を言わせず、唇に欺きを語らせるな」(13節)「悪を離れ、善を行え。平和を求め、それを追い続けよ」(14節)。悪をはかる者、危害を加えようとする者を、恨み、歯向かう必要はない。悪に対して悪を持って報いるのではなく、敢えて、志高く、誇り高き歩みをするのだ。人はかくも美しく生きることができることを、この教訓を心に留めつつ、証することとしよう。「主の目は正しい人たちの上にある」(15節)。「主は、そのしもべのたましいを贖い出される」(22節)。悪は、ただ悪しき者を殺すだけなのである。