詩篇42篇

第2巻、42篇 これからなのだ

<要約>

おはようございます。大きな器はなかなか水が溜まらないものです。水が溜まらない自分の現実に目を向けるか、大きな器である自分に目を向けるか、実に大きな違いです。信仰を持っているなら、あらゆる事柄を前向きに、革新的に考えたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

  1. 文脈と背景

42篇より詩篇の第二巻となる。ヘブル語で読むと、第一巻は神名にヤーウェ(主)が、第二巻はエロヒーム(神)が特徴的に使われるので、エロヒーム詩篇集とも呼ばれる。第一巻では、ダビデ以外に作者名はあげられていないが、第二巻(全31篇)では、ダビデのみならず、コラ(42-49篇)、アサフ(50篇)、ソロモン(72篇)、匿名(66,67,71篇)の様々な由来の詩篇が収録されている。

さて42篇は、一説に、ヨルダンの高台近くの北方に捕囚として連れ去られた神殿歌手の嘆きの歌とされている(2列王14:14)。詩人は神の家に帰りたいと切望し、この歌を歌ったというわけである。まず詩人は、自身の霊的な心境を語る。それは、谷川の流れを慕いあえぐ、極度の渇きに陥った鹿に例えられている。おそらく作者は、長期にわたる日照りによってじわじわと土地が乾いていく様を想定しているのであろう。動物は長く乾ききった大地の上で、うつろな目をしながら死んでいく、そんな様である。それは、まさに捕囚という動かしがたく、回復し難い現実の中で、もはや往時の礼拝の恵みを取り戻すことのできない詩人の状況を物語っている。神殿でいけにえをささげ、主の恵みを想起し、讃え、ともに主を喜んだその時は、もはやどう転んでも取り戻すことはできない。昼も夜も、嘆きながら回復を求めるが、もはやこの現実を変えることはできない、という無力さに閉じ込められるだけである。ただ、かつての祝福された礼拝の時(あの事など)や巡礼の旅を思い出しては、うなだれる他はない。

2.詩人の信仰

ところが詩人は、そこで突然自らを奮い立たせて語る。「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを」(5節)。重要なのは、うなだれ、思い乱れている自分を切り離し、客観視して自分を励ましていることである。感情的に崩れていく自分と、信仰に立つ自分を切り離していることである。確かに私たちも、現実から引き起こされる感情を無にすることはできない。けれども、この現実も、神の愛の配慮から出たものと信じ受け入れるならば、その感情にいつまでも浸っていてはならない、うなだれていてはならないのである。

なおこの呼びかけは、5節、11節にあるのみならず、43篇5節にも出てくる。つまり、42篇と43篇は、もともと一つの詩篇だったと考えられるのであり、三度の深い感情の揺れを語ると同時に、三度の繰り返し句によって、信仰的に整えようとする試みなのである。確かに、いくつかの写本上でもこの二つの詩は分離されておらず、主題も似通っている。

3.

ともあれ、第二連(6-10節)では、詩人は異なったイメージを取り上げている。ヘルモンの雪によって増水した大滝のとどろきが、そして、ヨルダンの支流の激しい渦巻きのイメージが語られる。今度は乾ききった大地ではなく、大水に飲まれる試練のイメージである。千路乱れた詩人の心が、乾ききった大地、そして大滝のとどろきと大水によって脅かされている状況に重ねられている。

しかし、周りの環境がいかに私たちの心を落胆させ、固く絶望感に閉じ込めてしまうようなことがあっても、生きておられる神が共におられ、恵みを注いでくださる、客観的事実は変わらない(8節)。ここで詩人が捕囚からの帰還を期待しえたのかどうかはわからない。しかし、詩人は少なくとも、神の素晴らしい導きを期待することができたのだろう。思い乱れ、気落ちする人生は、それまでである。神を信じるならば、神に大きく期待することだ。自らの信仰をぐっと深めることだ。自らの信仰の弱さを素直に認め、自分に語り聞かせてみよう。「がっかりするな。あわてるな。この先どうなるか神に最後まで期待しようではないか。神は賛美に導いてくださる。これからなのだ」と。大きな器は、なかなか水を溜めることができない、そのように考えよう。

 

 

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