45篇 愛の歌(バクスターp335)
<要約>
おはようございます。王の即位式の詩篇、あるいは祝婚歌とされるものです。イエス・キリストのイメージに重ねられるメシヤ詩篇としても読まれているものです。キリストがどのようなお方であったかを振り返りつつ、このメシヤ詩篇を詠み歌う恵みを味わいたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
- 王
表題は「愛の歌」である。文字通りに取れば、王の結婚を祝う歌であろう。しかしこの詩篇が、コレクションに加えられたのは、雅歌同様に、人間の婚姻関係を神とその民の関係の比喩として語るものがあったからである。つまり霊的なメッセージがある。
最初に詩人は、花婿について語る。この王が具体的に誰であるのかはわかっていないが、ことばが優しい魅力的な王である(2節)。ふと連想するのは、マタイのことば。「娘シオンに言え。見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って、荷ろばの子である、子ろばに乗って」(21:5)登場する花婿は、柔和な王、慈愛に満ちた王である。しかしその王は、同時に、剣を腰に帯びる好戦的な勇士である(3節)。パウロは語った。「様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました。」(コロサイ2:15)。柔和な王であり、戦士である王は、キリストのイメージまさにそのものであり、それは、黙示録にも使われる対比的なイメージである。黙示録の5章を見ると、そこには、封印を解く方として、「ユダ族から出た獅子」(5:5)と「屠られた姿の子羊」(3:6)の二つのイメージが対比されている。一方は、荒々しい戦士のイメージ、もう一方は、優しい、柔和な子羊のイメージである。そして、「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です」(5:11)と、王の威光が称えられる(4節)。
さらにこの王について注目すべきは、この王が「公平の杖」義を愛し、悪を憎むという形で、正義を貫かれたという点であろう(6節)。イエスの十字架の死は、神の愛を示すと同時に、神の義を示すものであるように、実にこの詩篇はメシヤ預言として読むことのできるものだ。ヘブルの著者が、この詩篇を引用し、み使いに優る神の御子を指し示したのも、理由なきことではない(ヘブル1:8-9)。
2.花嫁
8,9節は、当時の王の有り様を推測させる。花婿の衣はよいかおりを放ち、その宮殿は、象牙の彫刻で飾られ、部屋には美しい音楽が流れている。宮廷の婦人たちの中には、諸王の王女も混ざっている。そして彼のすぐ右隣には、美しい金で身を飾った王妃が立っている。こうして、詩人は第二の焦点である王妃、いわゆる花嫁について語る(10-12節)。
花嫁について語られることは、まず、「あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ」(10節)である。過去の出来事や、過去のつながりに対する未練を心の中から消し去り、関心事を今に、今の夫に注ぎ込めという。古い忠誠は、新しい忠誠にとって変えられねばならない。夫に対する献身が語られる。そしてさらに「ひれ伏せ」(11節)、つまり服従せよ、と勧められている。キリストの花嫁である信仰者も、キリストを愛し、従うべきことが語られる。
「王の娘は、奥にいて栄華を窮め、その衣には黄金が織りあわされている」(13節)。控え室で着飾り、式の始まりを待っている花嫁がイメージされる。そんな時に花嫁は、あれこれ考える瞬間を持つことだろう。しかし、今、キリストの花嫁としてあるならば、やはり、過去と手を切り、夫であるキリストに服従する決意を新たにしなくてはならない。それによって妻は何かを失うのではなく、逆に新しいスタートを切るのである。
3.賛歌
最後に花婿に対する賛歌が加えられる(16-17節)。16節「あなた」は花嫁か、花婿か、17節「わたし」だれか?色々と迷うところであるが、これをメシヤ詩篇として読むのならば、王の即位である、イエスのバプテスマのシーン(マタイ3:16-17)を重ねて読むのがよいのだろう。つまり、「あなた」はキリストであり、「わたし」は神として解釈するのである。そうすれば、確かにキリストの子孫であるキリスト者は、キリストの御名において世界を支配するのであり、そのキリストの名を後の世まで輝かせるのは、神の御業なのである。キリストの栄光がいよいよ豊かに明らかにされるように、明日の礼拝に祈り整えられて出席したいところである。