46篇 神はわがやぐら
<要約>
おはようございます。私たちは、聖書を読みながら、これは昔物語である、自分とは何も関係がない、と考えてしまうようなところがあるものです。しかし、そのような信仰の態度では、何の希望もない日々が続くだけです。ここはひとつ、主にかけてみましょう。とことん人生をしゅにかけていくのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.神は不動である
表題の「アラモテ」は、ヘブル語で「女」を意味する。女性の聖歌隊、あるいは、ボーイソプラノであるとも、さらには、高い音程の楽器による歌とも考えられている。詳しいことはわからない。
さて、この詩の背景は、よくわかっていないが、何か国家的、軍事的な危機状態からの救いがあった時に作られた、と考えられている。
まず、神は、「地」と「山々」にも優り堅固なお方である、と詩人は言う。「たとえ地が変わり山々が揺れ、海のただ中に移るとも」「たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水かさが増し、山々が揺れ動いても」大災害のイメージを思い起こすところだろう。大雨によって山が崩れ、水かさが増して家が押し流され、地形が様変わりすることがあっても神は変わらない。いつも神は「そこにある助け」である。
確かに人には、人生が揺さぶられるような脅威があるものだ。自身の存在の根底から脅かされるようなことが。自分がよって立つ、大地が、押し流されるようなことが。しかし、たとえそのようなことがあっても、私たちがよって立つ神は不動である、というわけだ。
2.神は助けられる
しかも神は不動なだけではない。神は、押し流されそうとする私たちを助けてくださるお方だ。
詩人は言う。その川も、神の支配の中にあることであり、喜びの源としてある、と。実際、神は、天変地異が起こるような出来事があっても、その現象を止められ、私たちを救うであろう、と語る。
BC701年ヒゼキヤの時代、エルサレムは、アッシリヤに包囲されたが、まさに夜明け前に、その攻撃から奇蹟的に助け出されている(2列王18-20章)。また、ヨシャパテの時代、イスラエルは、朝早くに出陣し、モアブとアンモンの攻撃を打ち破っている(2歴代誌20:1-28)。大切なのは、私たちと共におられ、私たちの砦となられる万軍の主そのものの存在なのだろう。たとえ私たちに対する敵対者が怒り狂い、私たちを消し去ろうとも、恐れることはない。敵対者の攻撃によって、私たちの地盤が崩れ、私たちが揺るがされることがあっても、決して慌ててはならないのである。神はちょうどよい時に、神の一声で、物事を終わらせる。「神が光よあれ」と言えば、光はできるし、神が御声を発せられるなら、世界の時間の動きは、10度後戻りすらする。その神を信頼するかどうかである。脅威がある時にこそ、神に心を向けたいものだ。神が私たちの避け所となり、助けとなってくださるからだ。神が戦いを終わらせてくれると信じたいところではないか。
3.よく理解しなさい
だから、主がどんなに素晴らしい御業をなされるか、主を信頼して、主を待ち望もうではないか(8節)。実際に、主が驚くべき御業をなされるか自分の目で確かめるのだ。アッシリヤにしろ、モアブとアンモンにしろ、確かに敵は総崩れになって大敗した。彼らが自らこの戦いを終わらせたわけではない。実際彼らにこの戦いを終わらせる力はなかった。戦いを終結したのは神である。「弓をへしおり、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれる」(9節)神の大いなる業を認めよ、というわけだ。
そこで詩人は、自らの実体験に基づいて神のことばを読者に語り掛ける「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」(10節)こう語られる万軍の主がわれらと共におられる、と言う。「やめよ」と訳されたヘブル語は、ハルフは、沈む、弱る、垂れる、捨てるなどの訳語がある。それは、静かにする、というよりも、ありのままに、そのままに、を意味することばであるという。つまり、今の状況を何とか自分の手でコントロールするような人間的な努力を一切やめて、ただ無力のままに、主に結果を委ねることを命じている。そして、「知れ」という。それは、体験的に知る、同意するという意味である。
つまり、ここまで読んできて、これは昔のお話だ、と読み流してはならない、ということだ。確かにあの時代にはそういうこともあったのかもしれない、でしょう。でも、今の私には、としてはいけない、ということだ。考えてみれば、神様、私をこんな窮地に立たせなくてもよいものを、と思うところだろう。だが、全ての人に試練は同様に訪れるのであり、神のみこころははかり知りがたいことであるが、いざ、試練が押し寄せた時には、神は、今も後も変わることのないお方、神の御前に、沈むまま、弱るままに、神の解決を待ち望むことなのだろう。神は確かに私たちの助け手となられるお方である。16世紀の宗教改革者のマルチン・ルターは、その激動の時代に、この詩篇にヒントを得て、「神はわがやぐら」(讃美歌267番、聖歌233)という讃美歌を作った。ルターの一つの証である。ルターは、本来であれば、フスと同じように、異端と見なされ火刑にさらされるはずであった。しかし、神はルターと共にあり、ルターの宗教改革を導き、プロテスタント教会の流れをお作りになった。これもまた歴史の証言である。
神が今も後も決して変わることのないお方であるとするならば、あなたが置かれた状況においてもそうだろう。落ち着いて神を信頼し、慌てることなく、万軍の主が私たちと共におられること、そして神が私たちのとりでになられることを、覚えたいところではないか。「さあ、主がどんなにすばらしいことをなさるか、よく見なさい」これを今週の処方としたいところである。