詩篇56篇

56篇 主の救い

<要約>

おはようございます。神が、私たちのまんじりともしない夜をご覧になっており、私たちの涙、つまり感情にも心を配っておられる、というのは、大変な慰めです。大切なことは、神は善であり、良いものを拒まれない父であるという信仰に立つことでしょう。諦めないことです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.背景

表題には、「ペリシテ人がガテでダビデを捕らえたときに」とある。ダビデは600人の部下を引き連れて、1年4カ月そこに留まっていた(1サムエル27:1-7)。つまりダビデはイスラエルの敵対勢力ペリシテ人の保護を受けたのである。これでサウルは、ダビデの追跡をしばらく諦めていく。ダビデは安全だった。しかし、ダビデの心の戦いは終わってはいない。ダビデは、依然として苦悶の中にある。確かに、人生において何か危害を加えられ、その危害の手が弱められるようなことがあったとしても、既に失われたものは大きいことがある。ペリシテの地に逃れ一時の安息を得たとしても、掛け違いのボタンのように、一度ずれてしまったものをもはや直せなかったりする。変わってしまった立場、人間関係、回復されない自分の名誉、それは、修復できないものとして、まさに一日中私たちの心を虐げ、踏みつけ、痛めつけることがあるだろう。

2.信仰者の道

「神よ、御怒りで、国々の民を打ち倒してください」(7節)。ダビデのやるせない心が、あからさまに表されている。しかし、「あなたは、私のさすらいを記しておられます」(8節)と語る点に、ダビデの信仰が感じさせられる。「さすらいを記す」というのは、私たちがどんな人生の道筋を生きてきたか、一つ残らず神はそれを記憶にとどめているということだ。誰も自分の苦しみなど知るよしもない、人はそのように考える。寝がえりを打ちながらまんじりともせず一人寂しく朝を迎える。しかし、そうではない。神は、知っておられる。天地創造の神が、この世界を支配し、人の心をも動かす神が、この私が夜も眠れず、寝返りを打っているのを知っておられるし、私の涙の一筋すら、つまり感情の動きすら見逃さない。その一筋の意味を理解し、覚書に書き止め、これをどうしようか、と考えておられる。

涙を皮袋に蓄える、リビングバイブルは、「涙をすくい集める」と訳している。そこに、神がその涙を喜びに変えてくださる、私の人生を取り戻してくださるという信仰がある。流した涙だけ幸せが戻ってくる。苦悶し、嗚咽しただけ、喜びと笑いが戻ってくる。神は流した涙の一滴すら零すことなく、集めて私たちへの報いとされる、というわけだ。涙が無駄になることはない。支払ってくださる神がいる(ピレモン18,19)。神だけは、私の味方なのである、これがダビデの信仰である。人はダビデのように、やるせない感情を神に委ねることを学ばなくてはならない。

3.神の恩に報いる

「神に信頼し、私は何も恐れません。人が私に何をなし得るでしょう」(11節)。なぜか、神はみことばのとおり、物事を進めてくださるからである。神は私たちに約束されていることを果たされる。「神にあって、私はみことばをほめたたえます。主にあって、私はみことばをほめたたえます」とはそういうことだろう。そうであれば、こそ、恐れと悲しみは、神のみ言葉に対する信頼によって取り去られる。神が契約のとおりに、すべてを良きにしてくださる、という信仰によって、それらは払拭される。

となれば、神の救いは、自己充足、ご利益のためではない。私たちも神に対する約束を果たすのである。「私が、いのちの光のうちに、神の御前に歩むために」(13節)とあるように、それは、神の前に、神の栄光を現わす歩みを続けることを覚悟させる。人生の苦難に振り回されることなく、いつでも神との約束事を大事にし、神の恩に報いる歩みをする、それが人のすべてである。

 

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