58篇 やるせない時の祈り
<要約>
おはようございます。この所、追い詰められた者、見捨てられた者、この世的に敗者となった者の祈りが続きます。しかし、それらは、私たちに祈りの言葉を具体的に提供するものと言えるでしょう。ダビデの言葉を借りて祈ってみたいところです。そして、「まことに裁く神が地におられる」神は正しいお方であることを体験させていただきましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
「力ある者よ」は、欄外注では、「いくつかの古代訳による」とあり、ヘブル語本文では、エレム、つまり「黙する」となっている。唇を堅く閉ざすことを意味し、詩篇31:18では、「偽りのくちびるを封じてください」と訳されている。あるいは、ダニエル書では、「私はうつむいていて、何も言えなかった」(10:15)という形で使われている。「封じる」「何も言えない」「黙っている」。ここでは、裁可すべき権力を持ちながらも、語るべきことを語ろうとしない、黙する様を言っているのではないか。残念なことだが、権力を振るうのみ、あるいは、権力に胡坐をかくのみで、正義の一欠けらもない者たちがいるものだ。結果そのような人物のもとにある社会の取引は不正だらけで、暴虐を野放しにするのである(2節)。
そして口を開いても、そのような者たちは、生まれた時からの嘘つきで、まるで、耳の聞こえないコブラのように、つまり蛇使いにコントロールされることもない、未成熟な本能そのままで生きているようなものである。
いったいダビデは、人生のどの時期でこのような状況に遭遇したのであろうか。具体的にその時期を特定することはできないが、ここでの非難は個人的な問題ではなく、社会的な影響を与えている人に対する非難である。
となればサウル王の迫害下にあり、正しいことがわかりながらも、ダビデのためにとりなすのでもなく、黙して語らず、冷やかに事の成り行きを見つめている権力者たち、あるいは嘘偽りを並べて、火の粉がかからないように権力維持に汲々としている者たちを言っているのかもしれない。寒々しい状況である。まさに上に立ってはいけない者が上に立つ状況であるが、人の世において、そのようなことはしばしば起こりうることなのだ。ダビデの経験は過去の特殊な経験ではなく、歴史的に身近な経験であり、そこに無念さを感じている人はいつの時代にもいることだろう。
2.祈り
だが、キリスト者は、そこで腐り果てるのではなく、正しき神がおられることを信じ、ダビデのように祈るべきだろう。おそらくここには、七つのイメージでもって、そのような悪しき者たちが取り去られることを願い求めている。第一に「口の中で歯が折れた人」「牙が打ち砕かれた若獅子」(6節)「地に吸い込まれてどことなく消え去る水」(7節)「折れた矢(新改訳第三版)」(7節)「溶けて消えて行くなめくじ」(8節)「日の目を見ない、死産の子」(8節)、そして9節「おまえたちの釜が、茨の火を感じる前に、神は、それが緑のままでも、燃えていても、等しく吹き払われる」つまり、到底権力者にふさわしくない者が権力の座に着き、何かを計画し、いよいよ準備が整い物事が動き始めるような時に、神が、一息にそれを吹き飛ばされる、ということだろう。もっと直接的なイメージで言えば、調理なべに具材が盛られて、火を点火して煮込もうとした矢先に、火が吹き消された状況である。水につかった生肉や野菜などを見ながら、これ食えないなあ、という状況である。
ダビデの激しい怒り、やるせない感情に共感し、このように祈ってみるのもよし、と思う人も多いだろう。正義は曲げられ、不正と暴虐が蔓延る最中にある。それは、自分の力ではどうにもならない落とし穴に閉じ込められている状況であり、下手に抗おうものなら、耳をふさぎ、耳の聞こえないコブラの毒牙にかかってしまうのだ。こんな時には、ただひたすら神に向かって、ダビデのことばを借りて叫ぶほかはない。救いは神以外にはないからだ。
3.賛歌
祈り!祈り!祈り!神は正しいことをなさるお方である。私たちは必ずやこう告白するだろう。「まことに、正しい人には報いがある。まことに、さばく神が地におられる」(11節)。
たとい、袋小路の中に追い詰められようとも、不正はいつまでも続かない。ふさわしくない権力者がいつまでも権力の座にいることも許されない。神は天地創造の神であり、全能の神である、と同時に、正義の神である。正しいことを行われる神である。不正に踏みにじられ、やるせない状況に置かれている時には、腐ることなく、神にその状況を訴えることにしよう。そして、ダビデのように七つのイメージで祈り、確かに、さばく神が地におられることを実感させていただくこととしよう。そのような実感もない信仰など不要である。