詩篇60篇

60篇 こんなわたしでも
<要約>
おはようございます。しばしば信仰者は、神に呪われた、と物事を単純化して考え、思考力をストップさせてしまうものです。それは自分の現実を見るのが怖いからです。しかし、素直に自分を採点してみたらよいのです。そして、自分は赤点のような者であっても、神の約束のゆえに、神の祝福に与ることを信じ、突き進んでいくべきでしょう。下手にへこまず、人にも安易に頼らず、ただ神にあって私たちは力ある働きをしますと告白し、祈りたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
「アラム・ナハライムやアラム・ツォバとの戦い」というのは、2サムエル記8:3-6に出てくる出来事である。ダビデが王となり、北東のユーフラテス川近くに遠征している間に、その隙をついてエドムとモアブが南方のユダに侵略した。表題の1万2千人は、サムエル記や歴代誌では1万8千人(2サムエル8:13、1歴代18:12)となっているが、その数の違いは、長期間の軍事行動を要約する方法の違いか、写本の誤りか、いずれかによると考えられている。
いずれにせよ、ダビデはヨアブを派遣し(1歴代誌19:6-9)この危機的事態に対処するのだが、それは全く思いもよらぬ軍事的な失敗となった。2サムエル記にも1歴代誌にも、甚大な被害を受けたような書き方はされていないが、実際には、国は荒廃し、報復の最初の試みも失敗し、それは全くダビデやイスラエルを落胆させ、まるで不本意によろめかす酒を飲ませられたような、屈辱的な出来事となったのである(3節)。
2.神にあって突き進む
 一難去ってまた一難というべきか、サウルの攻撃から解放されたダビデは、王となるやいなや、今度はその手腕を試される出来事に直面したのである。人生において試練や苦難は、尽きないものだ。乗り越えたと思ったら、また次の試練が押し寄せてくる。
だがそれら一つ一つに落胆していてもしょうがない。むしろ、絶えず神のことばに強められて、突き進んでいくのみなのだろう。実際、ダビデは逃げようとはしなかった。ダビデは自分が無力で、みじめな状況にあることは、神の怒りの故と捉えた。これは神から下された災いだ、と。しかしそうではない、むしろダビデの力不足だったのである。大事な点ではないか。なんでもかんでも、神や悪魔のせいにして、深く現状を洞察できないようではいけない。物事に行き詰まることは、自分自身の問題だってあるのだ。
しかし、神はあわれみ深い。ダビデは、神が「旗を授けられた」と語っている。旧約聖書において旗は結束のシンボルである。神を恐れる旗印のもとに戦士が集められる、と言う。
出エジプト後の古い世代と新しい世代を思い起こすべきだろう。古い世代は、恐れ退き、荒野を40年彷徨うことになった。新しい世代は、恐れる状況の中で、ただ神を恐れ、神にあって奮起し、約束の地カナンを占領した。モーセは「あなたが、「これらの異邦の民は私よりも多い。どうして彼らを追い払うことができるだろうか」と考える時にも、彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がファラオに、また全エジプトになされたことをよく覚えていなければならない」(申命7:17、18)と語った。確かにそうなのだ。たとえ私たちがどうしてこの問題を克服できようかと思うことがあっても、恐れてはならない、誠実な神に信頼しなくてはならないのであって、ダビデは、自分の頭の弱さ、思慮のなさ、を覚えさせられても、神を恐れる旗印のもとに、神の助けがあるとっておきの手に立って「あなたの右の手で救い、私に答えてください」(5節)と祈ったのである。というのも、ダビデの全ての行動は、モーセ、ヨシュア同様に、神がアブラハムに約束された事柄に基づくものであり、たとえ自分の弱さがあってもそれを無視することはできなかったのである。かつて主は、アブラハムに仰せられた。「その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」(創世記15:18-21)ダビデは、この約束に立ち、さらにモーセの勧めに従った、というべきだろう。そのようなダビデに、神は聖所から、ご自身の言葉に二言なし、神がカナンの地を与えると約束されたことは決して変わらないと明言されている(6-8節)。
3.神の助けを懇願する
人間社会に起こることは予測不可能なことが多い。そして私たち自らの判断力の弱さによって、大失敗をしでかすこともあるだろう。だが、そのような結末に一々慌ててはならないのであるし、たとえ不意を突かれることがあっても、神がそこから私たちを最善に導いてくださる、と考えたいものである。不意を突かれて、ああこんなになってはもうだめだ、自分はだめだ、結局だめだと思うのが普通の人間ではないか。しかし信仰を持ったら、もうそのように考える自分とはおさらばしよう。神は、「どうして…と考える時も…恐れてはならない」と言っているのだし、再挑戦する機会を与えてくださるお方だからだ。信仰があれば人生には可能性が尽きない。
 「ダビデ」という名前は「神に愛された者」を意味する。私たちは常に神に愛されていることを覚えなくてはならない。私たちは、私達に何か魅力があるから愛されているのでも、私たちが神に従順だから愛されているのでもなく、イエスが十字架で成し遂げた業の故に愛されている、そこに立たなくてはいけない。ダビデが神に愛されたのは、ダビデに愛される理由があったからというよりも、神がアブラハムに約束されたことに立ったことによってである。私たちの場合、神はキリストの契約の故に、愛し祝福してくださるのである。だから安易に経こんだりすることも、そして人を頼ることも止めよう。心を真っ直ぐ神に向けて「神によって、私たちは力ある働きをします。どうか助けてください」と素直に祈ってみよう。

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