61篇 手ごたえのある祈り
<要約>
おはようございます。信仰者において祈りは、最大の防御であり攻めであると言えるものでしょう。気休めでも、口先でもなく、真に一言一言力ある祈り、確信に満ち溢れた祈りをする者として訓練され、整えられたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
ダビデは祈る。「私は地の果てから、あなたを呼び求めます」英訳では、far from home(直訳は家から遠く)である。つまり、ダビデは神との心の距離を果てしなく遠く感じている。神が、その声を聞き分けることができないほどに、自分が遠くにいると感じている。また祈る「及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください」あるいはダビデは、この時、岩山の頂、岩棚に造られた鷲の巣を見ていたのかもしれない。そのように高くそびえる岩山から、地を見下ろす鷲のように、あらゆるものから絶対的に優位な位置に立ちたい、と思う状況があったのかもしれない。どんな背景であったのだろうか。一説に、アブシャロムの反逆があり、王位を追われた時のこと、エルサレムを離れ彷徨い歩いた時のことではないか、と言われている。
彼にとってそれは、実に厳しい神の裁きに思われることであったことだろう。神を果てしなく遠く感じて、自分の人生はもはや落ちて行くばかり、もうこれでおしまいである。万事休す、と思うような出来事であったはずだ。
けれども、ダビデはそこで諦めない。いつも詩篇を読むたびに思うことは、「諦めないダビデ」、「粘るダビデ」というべきか。ダビデは神を呼ばわることにいつも手ごたえを感じているのだ。神に祈ることが、なおも希望をつなぐと信じている。もはや自分ではどうすることもできない状況であるのに、神には助ける力があると信じている。
実際ダビデは祈りの中で確信を得ている。「神よ、まことにあなたは、私の誓いを聞き入れ、御名を恐れる者の受け継ぐ地を、私に下さいました」(5節)。ハンナが祈り終わった時に、その顔が「もはや以前のようではなかった」、とあるように、確信を得て祈りを終わることを私たちはどこかで学ばなくてはならない。祈って、不完全燃焼で終わってしまうのでも、祈りっぱなしになってしまうのでもなく、信仰を持って勝利を確信する時を味わうのである。つまり、ただ漠然と期待して祈るのではなく、天からの、上からの手ごたえを感じる祈りの時を持つのだ。
2.子のための祈り
6節はわかりにくい。「王」(6節)「彼(新改訳2017は王と訳す)」(7節)は誰を意味するのか。アブシャロムとすれば、謀反を起こされても子を心配する父の心が吐露されている、と考えられる。息子が、王位を守られるように、そしてただ王位を保ち続けるのではなく、神の御前で王位に着いているように。彼に必要なのは、神のめぐみとまことである、と。彼が神と共にあれば、私も主を賛美しうると、いうわけだ。しかし、リビングバイブル訳がそうであるように、この箇所を自分のこと、と解釈する者も少なくない。自分が王位を回復し、いつまでもその王位が、神の御前で守られるように、めぐみとまことによって自分を保ってください、そうすれば私はあなたをほめたたえられる、と。また、これはメシヤに対する祈りである、つまりメシヤ預言的な部分であると考える者もいる。
ただバテシェバ(1列王1:31)やネヘミヤ(2:3)のことばにも見られるように、6節は、「いつまでも生きながらえるように」という、一つの慣用表現に過ぎず、永遠のメシヤ性を示唆するものではないのだろう。とすれば、自分のためか、彼のためかで、息子のために祈った、と取りたいところである。ダビデにとって王位は問題ではなく、アブシャロムの霊的な回復が、ダビデの回復でもあったはずからだ。子が自分に反逆しようと、それは自分の身から出た錆である。その子が全うな歩みに戻ってくれることが、親の真に願うところではないだろうか。
神への祈りは、一つの修練を要する。祈りそのものが、訓練である。確信を持ち、且つ、愛を持ってとりなす祈りを我がものとしていきたいところである。