詩篇62篇

62篇 俺もワルになると思うな
<要約>
おはようございます。信仰の歩みというのは、どのように物事を行うのか、という価値意識が大事なのだと思います。結果がよければすべて良しではない、ということです。神の正義、神の誠実さが証されるような形で物事が進められるのかどうか、そうでない世界にいつまでも関わり合っていてはならないでしょう。神の旗印を明らかにする歩みをしたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
「エドトン」は39篇にも出て来る名であるが、通説は、ダビデが公式の礼拝を導く者として任命した楽長の一人であるとされる(1歴代16:41)。
ダビデは語る「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。(2節)」ダビデの詩篇を読みながら、ダビデはどうしてこのように神に向かうことができたのか、と思うところがある。望みえないところでは、神にも心が開かない。ダメなものはダメだと心が折れてしまうものだろう。後ろ向きの心はひっくり返せない。人間の性質が根本的に違うのだろうか。いや、そうではない。そうした性質も主に新しく与えられるものである。
この歳になって、問題は山積み、悲しいことも多々あるが、神に対する賛美、感謝は消え去ることはないことを感じている。不思議なものである。信仰の積み重ねの結果なのか、とも思うのであるが、大事なことは、神の前に砕け散ることを学ぶことである。
この詩は、おそらくアブシャロム反逆の時に書かれたものであろうと考えられている。ダビデの王位が揺らぐと、途端に巷が騒々しくなっていったのだろう。「おまえたちは、いつまで一人の人を襲うのか」(3節)。ダビデを王位から引きずり降ろそうとする者たち、ダビデに代わる新たな権力を主張する者たちがうごめいている。そして、ダビデのこれまでの功績など、誰にも思い起こされず、ダビデを擁護する者もいない。孤立無援の心境である。もちろん、ダビデに加勢してくれるものは誰もいなかった、というわけではないだろう。しかし、加勢してくれる者も上っ面で、「口では祝福し、心では呪う」(4節)という、人間の裏表のある対応に、心が痛み疲れてくる。それは実に、とめどもなく心が堕ちていく状況である。ダビデはもはや崩壊寸前の城壁のようだ。降伏も秒読み段階に入り、何もかもが終わってしまいそうな状況にある。しかしそのようにたましいが砕け散り、肉の自分に死んで、神の力以外に自分を救う者は無し、と心低くされるのであればこそ、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」という気持ちにもなるのである。そうであればこそ、「私の救いと栄光は、ただ神にある。」(7節)「民よ、どんなときにも神に信頼せよ。あなた方の心を、神の御前に注ぎだせ」(8節)という信仰も生じるのである。
2.人の子らは空しい
 「低い者はただ空しく、高い者も偽りだ」(9節)。新共同訳では、「人の子らは空しいもの。人の子らは欺もの」である。原文は、それぞれ「ベネー・アダム」「ベネー・イーシ」となっていて、ベネーは「息子」アダムとイーシはどちらも「人」を意味する類義語である。だから新共同訳のように、いずれも「人の子」と訳してもかまわないのだろうが、この二つは、類義語でありながら意味の幅が違う。敢えて言えば、アダムはより一般的で、包括的に人を捉える用語で、イーシは個人的、具体的に捉える用語と思われる。そこから一般的で凡庸な人である「低い者」、注目される特定の著名人のような「高い者」という訳も出て来たのではあるまいか。ただ、NEB(New English Bible)の英訳にもあるように、「すべての人」を言う詩的表現とした方がよいのではないかと私は思う。どんな人も空しい。たとえ価値あるように見えるあの特定の人であっても、秤にかければ神の前には価値がない、ということである。
だからたとえ、自分の周囲を囲む状況がどうなろうとも、そのことは気に掛ける必要もない、というのが、裏にあるメッセージである。そうであるから10節、人間的な不正な手段により頼むな、ということであろう。「圧政」と訳すべきか「暴力」と訳すべきか、「略奪」とすべきか「搾取」とすべきか、大まかに意味は伝わってくる。そして思い切った意訳であるが新共同訳の「力が力を生むことに心を奪われるな」は、説得力がある。勝ち組がますます、能力ある人々を集めて勢いづくようなイメージである。直訳は「繁栄に心を留めるな」であるが、敵の栄える様がリアルである。確かに、自分が打ち破れそうな時には、敵はますます勢いづいていくように見え、口惜しいこともあるだろう。一層、自分もワルになって、不正な手段で、挽回してやろうか、とすら思わされることだってあるだろう。しかしそうではない。たとえ状況が不利であっても、そのようなことに心を奪われるな、とダビデは言う。
というのも、信仰者の生き方というのは、たとえ結果は同じように見えても、どのようにそれをするか、という価値意識の差に、それは現れるからだ。神の前に誠実に生きる人間は、あのようなやり方はしない、という問題でもあるからだ。私たちが寄り頼むのは、富でも能力でもなく、正義の神、誠実な神ご自身である。神は、地上の権力をみ旨にかなう者に委ねられる。そして「ひとりひとりのそのしわざに応じて報いられる方である」公平な取り扱いをしてくださる神の前に、心低くし、神の救いを静かに信頼することにしよう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.