65篇 日常性に神の祝福を味わう
<要約>
おはようございます。これまでのダビデの詩篇と違った趣のある内容です。ダビデが何かを乗り越えて安らぎ、神への献身の思いを強めている姿があります。その背景には、罪の悔い改めから始まり、日常性の中で神との関係を深めている、ダビデの日々があります。ダビデに倣い、今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.神とよき時を過ごすダビデ
これまでのダビデの詩篇は、逃亡の中での苦しみ、叫びを歌うものが多かった。しかしこの詩篇は違っている。ダビデは何かを乗り越えて安らいでいる。そして、神とゆっくりとした時を過ごし、自らのさらなる献身を表明している。
1節はヘブル語の語順通りに直訳すると、「あなたを静かに待ち望み、賛美します。神よ、シオンにて。あなたに誓いを果たしましょう」となる。この詩篇全体の要となる1節である。つまり、ダビデは、シオンに住まわれる神を仰いでいる。神の恵み豊かさを思いめぐらしながら、自分自身の神に対する誓いを思い起こし果たす決意を新たにしている。神とのこの個人的な関係の深まりを私は興味深く感じる。人を頼るのでもない、見えるものに頼るのでもない。ただ目に見えない神を認め、神を仰ぐのである。そして事実、神との時を過ごしている。それはこの後の2-4節の、神とダビデの関係性、そして、5節以降の神のなんであるかへの洞察の深まりの故なのだろう。そのために、神をこよなく愛し、神との関係を楽しみ、そして神に対する誓いを果たしましょう、という冒頭の言葉が生きてくる。
2.神とダビデの関係性
そこで、神とダビデの関係性であるが、ダビデは言う。「数々の咎が私を圧倒しています。しかし私たちの背きを、あなたは赦してくださいます。」(3節)ダビデは、神の前に自分が罪人であることを認めている。神を呼び求めるにふさわしくない自身の現実を理解している。しかし、神は罪人を拒まれない。むしろ罪人を選び、罪を赦し、聖め、近寄せられるお方である。そしてご自身の良いもので満ち足らせてくださるお方である。つまり神は、大よそ似つかわしくない祝福を注いでくださる、あわれみ深いお方なのだ、この事実が私たちに、神とよき時を過ごすことを願わせるのである。
だがどれほどの人が、この神のこのあわれみ深さの「深さ」を理解しているだろうか。神は恵み深いとは言うが、その恵み深さは、実に底の浅いものであったりする。だから自分の感情が許さなければ、人は神が自分を良いもので満ち足らせてくださるとは、とうてい思えない心境になる。そして、自らを神の呪いと、厳しい罰のもとにあることを疑わず、そのへこんだ思いをどうすることもできないでいるものだ。神の恵み深さを真に知ることができるように!神はあわれみ豊かなお方であり、それは人の想像を超えている。
3.日常性の中の神の恵み深さ
そして、神の恵み深さは、まさに日常性の中でこそ味わい知られ、深められるものである。人の人生のあれやこれやは、みな神の計画の中で、神の守りの中で起こっている。私たちの身の回りで起こっていること、自然の営み、開墾、種蒔き、成長、収穫のサイクルはみな、神の御手の業として起こっていることである。まさに、「あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、これを大いに豊かにされます。~その成長を祝福されます。」(9-10節)とあるが、それは、農耕を環境とする古代イスラエル人の感覚による生活上の信仰告白である。現代の都市文明の中にある私たちにとっては、通学・通勤、学業・労働など、ありとあらゆる産業的な営みの中に神は恵みと祝福をもたらしてくださる、と理解されるところだろう。
私たちの日常性の中の成功は、決してその人自身の努力だけによるものではない。それは、静かに考えればわかることである。やはり、自分の努力もあったが、あの人の助けがなかったら事は進まなかった、自分でも考えてもいなかったこんな機会に出会わなければ、今の自分はなかった、そんなことばかりではないか。全て成功を語るその物語の間隙に、見えざる神の御手の業がチラチラ見え隠れすることは、認めざるを得ない。これは私の成功である、すべては私の力だ、と恥知らずになってはならないのである。
さて詩篇65篇は、単なるダビデの個人的な詩ではなく、公の呼びかけの詩篇としてまとめられている。この詩篇の背景は様々に推測されているが、最も有力なのは、この詩篇が、干ばつあるいは、飢饉の脅威が過ぎた後に詠まれたとするもので、収穫感謝の際の歌とされたという。それによれば1節は、国民に対する呼びかけとなっている。干ばつの後、あるいは飢饉の脅威が過ぎた後、良い収穫のために感謝を持って誓いをするように、という呼びかけである。「シオンに住まわれる神よ。あなたを静かに待ち望み、賛美をささげましょう。あなたへの誓いが果たされるように」(1節)ということだ。目に見えない神は、今も生きて、働いておられる。今日も、神のことばに耳を傾け、神の業に期待しよう。そして神と共に生きる自らの思いを新たにすることとしよう。