69篇 不当な苦しみを超えて
<要約>
おはようございます。メシヤ詩篇として、新約聖書にも多々引用されている詩篇です。ダビデによると表題がつけられているのは、ダビデ風の起承転結の故なのかもしれません。そこに味わうのは、神との深いつながりによる、現生に対する客観的な心境です。世にあって卑しめ、辱められることがあっても、神もまたそれをよくご存じであり、神もまたその気持ちを共有されておられるのです。もうよいではないか、と立ち上がっていきたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
神に忠実であるために引き起こされた、不当な苦しみを歌った歌であるとされる。内容的には、哀歌3章に似ていること、イスラエルではなくユダと語られていること(35節)から、ダビデ以降の時代、たとえばヒゼキヤもしくはそれ以降の苦難を背景としている、と考えられている。つまり表題には「ダビデによる」とあるが、ダビデの著作性が疑われている。しかし、ダビデが著者ではないとしても、ダビデと切り離して考えることのできない詩篇と言うべきなのだろう。ここでは、ダビデの詩として読んでいく。
この詩篇の主題は、詩篇22、35、55、109篇に通じるものがあるとされる。実際、詩篇22篇と共に、新約聖書に最も多く引用されている詩篇である。ルカ(25節⇒使徒1:20)、ヨハネ(4節⇒ヨハネ15:25、9節⇒ヨハネ2:17、21節⇒ヨハネ19:28以下)、パウロ(9節⇒ローマ15:3、22,23節⇒ローマ11:9-10)と引用も多く、メシヤ詩篇として読まれて来た。神の使命に忠実に生きたために引き起こされた不当な苦しみ、いわゆる十字架の苦しみを耐え抜いたキリストの姿が描かれているというわけだ。
2.神への叫び
まず著者は、自分の苦難を神に訴え、叫んでいる。「私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。私は大水の底に陥り、奔流が私を押し流しています。」(2節)ダビデを憎み、ダビデを滅ぼそうとする敵に対する恐怖がある。内面の混乱ともがきの絶望的な状況が語られる。それは、何もかもが崩され、奪われて、奪わなかった物さえ返さなければならない、つまり無実の罪を着せられるような思いにさせられる時である(4節)。
もちろん、自分の身から出た錆ということもあるかもしれない。ダビデは言う。「あなたは私の愚かさをご存知です」(5節)。自分の落ち度や罪のゆえに、仲間に排斥される、こともあるだろうが、それは神と私との間で解決されている問題である。だから、今の敵の仕打ちは実に耐え難い。その不当さは、神の前に遜って神に寄り縋る者、すべてを否定するのである。確かにダビデの叫びが無視されるなら、それは、「神を待ち望む者たち」「神を慕い求める者たち」が皆恥を見、卑しめられることになる。8節、ダビデは家族にすら距離を置かれた(詩篇31:11、38:11)。孤立無援の状況、それは、キリストにも体験されたことである。「あなたの家を思う熱心が私を食いつくし」(9節)、ヨハネは、イエスの宮清めの出来事において、弟子たちがこのことばを思い起こしたとしている。神に熱心であるあまり、仲間からも身を引かれていき、いよいよ、危うくされていくメシヤの姿があった。
3.神への祈り
そこでダビデは、神に助けを求め祈っている。「しかし私は、主よ、あなたに祈ります(13節)」大いなる決断の「しかし」である。搾取され、苦しめられ、いよいよ望みえない中で、ダビデは「しかし」を自分の心の内に響かせている。神に望みがあるからだ。そして神に向かって「みこころの時に、あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください」と物事が神の時間枠で動いていくことを覚えながら「私を泥沼から救い出し、私が沈まないようにしてください」(14節)、と神の救いを祈っている。「あなたのあわれみの豊かさにしたがって」(16節)、つまり神の測り知れないあわれみにより頼み、その可能性と御力に大いに期待し、御顔を仰いで祈るのだ。というのも、19節「あなたはよくご存じです」「私に敵する者はみな、あなたの御前にいます」と告白するように、神が全てをご存じの上で、敵の不当を、そのままにしておられる、栄えたままにされているからである。神はわからないわけではない。わかった上で、この問題をどのように裁可しようかと見ておられるのである。
4.私たちの怒りならぬ神の怒り
「彼らの前の食卓は罠となり、栄えるときに、落とし穴となりますように」(22節)。「彼らがいのちの書から消し去られますように。正しい者と並べて、彼らが書き記されることがありませんように」(28節)。誹謗中傷の中で、ダビデを理解しようとする者は誰もいない。孤立したダビデの怒りが吐き出されている。これまで救いを求めて来たダビデは、一転して敵への厳しい裁きと呪いが下されることを求めている。それは、イエスの十字架の苦しみの骨頂に通じるものだ。イエスがこのように人々を呪った記録はないが、イエスが置かれた状況はそうだったと言える。イエスもその怒りの状況に置かれ、人間のやるせない状況を味わったのである。となれば、ダビデの怒りは、神の怒りとされたともいえる。呪いの詩篇は、神の前に、正直であることを促すものだが、同時に、神もまたその呪いの感情を受け止められるのである。神は、御存知なのだ。
5.神への感謝と信頼
だからもうよいではないか。神は全てをご存じであるし、その上で、今の状況を許しておられる。正義の神が、正義を曲げることもない。むしろ、神にこのような問題はお委ねするのがよい。というのも、人にサタン以外の敵はいない。敵と思われる者もまた弱さを持った人間であり、神に造られているものであり、神に愛されているものである。だからこそ、敵なる者が、その罪に気づいて、悔改めへと導かれ、神の家族として回復されるように、敵と思われる人のために祈ることが求められるのである。
22節、パウロは、このことばを引用し、イスラエル回復の希望について語っている。ユダヤ人はイエスを拒絶した。そのためにその救いは、ユダヤ人から異邦人へと向けられた。ユダヤ人は神の救いの恵みの機会を失った。しかしそれは28節にあるように、永遠のものではなく、一時的なもの、異邦人を通してユダヤ人の救いが完成されるためである。28節は人間としての自然な心情を語るものであるが、パウロはこの詩篇を引用しながら、敵が神に見捨てられることがあってもそれは一時的であり、回復のためであり、こうして全ての人が救われるためであると、壮大な救済論を述べている。
だから最後にダビデは、同じ境遇にある者達を励まし祈っている(32、33節)。「神を求める者」「貧しい者」それは決して神に忘れられることはない。神は、真に神に寄り縋る者を、蔑まれず、イエスの復活が象徴するように、建て直してくださる。神の恵みがあり、安息があることを信じ、歩ませていただくこととしよう。