71篇 力衰えた者のための詩篇
おはようございます。人間は年取ることにより、エネルギーも、力も落ちてくるものでしょう。しかし、人生に試練は尽きません。試練がますます深く感じるのは、年のせいもあると言わねばなりません。けれども神の誠実さが変わることはなく、それはいよいよ、強く、また深くなると言えるでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈
最初の3節は、詩篇31篇1-3節の繰り返しである。そして興味深いことに、4節以降は、詩篇22篇の内容とよく似ている。また、日本語の聖書にはないが、七十人訳(ギリシャ語訳)聖書の表題には、「ダビデによる。ヨナダブの子らと最初に捕囚になった者たちによって歌われた詩篇」とある。ヨナダブはダビデの甥であるから、元々は、ダビデによって作られたものに、手を加えられて伝えられてきたものなのではないだろうか。
何度か繰り返し読むと、どうやら人生の晩年に差し掛かった者の祈りである、と理解される。「若い日からの拠り所」(5節)、「年老いたときも、私を見放さないでください」(9節)、「年老いて、白髪頭になったとしても」(18節)とある。著者は敵のあざけりの中に置かれている(22:6-8)。しかも、それは、晩年の力の衰えを感じる中にあってのことである。若くエネルギーに溢れている時ではない。もはや、自らを奮い立たせるには、いささか精神的な負荷を感じる歳である。そんな時に押し寄せてくる試練は、実に受け止めがたいものがあるだろう。だが詩篇22篇の著者同様に、著者は、生まれた時から自分を抱いて来た神を思い(22:9-10)、主にある解放に期待し、主に呼びかけている(22:19-22)。
2.生涯にわたる主の誠実さ
著者は、神の義(24節)と真実(22節)、いわば神のご性質に目を向けている。確かに重要なのは、神の私たちに対する変わらぬ誠実さである。神の誠実さの故に、私たちは守られてきている(2節)。試練の時には、過去の恵みを数えることなのだろう。振り返ってみれば、これまでの人生にも多くのことがあった。多くの波があり、足が救われそうになる多くの出来事があった。しかしその度に、神は、私を守り、導いて来られた。そのような数々の事柄を思い起こさせられるものだろう。確かに神は、「私を多くの苦難とわざわいとにあわせられましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び引き上げてくださ」(20節)るお方である、と告白することができる。その神に、なおも期待を寄せて、最後の最後まで、主のご配慮と守りを願うところなのだ。
3.次世代への祈り
確かに神の祝福は、尽きない。それは無尽蔵であって豊かであり、人は、これを豊かに受けることができる。著者はまさにその繰り返しと豊かさを思い起こしているのである。そしてさらに著者は、「あなたが私の偉大さを増し、ふり向いてわたしを慰めてくださいますように」と祈っている。順序は逆になるが、その経験があればこそ、「私はなおも告げ知らせます。あなたの力を世に。あなたの大能のみわざを、後に来るすべての者に」(18節、22:30)と、宣教の動機づけがなされる。宣教の基本は、自らが神の義を味わうことにある。神の何であるかを味わえばこそ、口も開かれる。宣教は自然なものであればこそ説得力を持つ。次世代に対する思いも、自らが神の義を味わうことが前提である。次世代を育てるとはよく言われるが、自らの信仰の経験を証することが、すなわち育てることにもなる。大切なのは、自らがいかに深く神を味わい知り、喜びと感謝の中で、信仰の歩みを続けているかだろう。不思議なことに、人は神を経験せずとも、神を語ることができる。しかし神を経験せずに、神の誠実さを、確信をもって語ることはできない。人生において神の義を味わうこと、生涯を通じて神の真実を味わうことは、クリスチャンの幸いである。自分の義ではなく、神の義にこそ目を留め、神の義と真実を味わいながら生きて行く、そしてこれを「後に来るすべての者に」告げ知らせる(18節)ことがクリスチャンの人生なのである。