80篇 私たちの回復
おはようございます。イスラエル北王国の回復を祈る、ユダ南王国の詩人の祈りとされるものです。隣人の惨状を我がことのように祈る、とりなしの祈りの精神を学ぶところでしょう。このような祈りが教会の中で、燃やされる年でありたいところです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
この詩篇の背景は、様々に推測されているが、捕囚の苦しみの中にある北イスラエル王国のために、南ユダ王国の詩人が詠った嘆きの歌である、と考えられている。というのも、1節「イスラエル」「ヨセフの群れ」という表現は北イスラエルを、また2節「エフライムとベニヤミンとマナセ」について言えば、エフライムとマナセはヨセフの子、ベニヤミンは、サウロの出身部族で、分裂王国時代は南王国に属したが、ダビデとの絡みで言えば北部族にあたる。そしてユダ部族については何も触れていないからである。
民の惨状が繰り返し語られる。4-6節、12-13節、16節、国は荒廃し、滅び失せた。そして敵に嘲られている。泣いて祈っても、神はお答えにならない。あわれみ深い神はどこにいるのか、神は怒るのみであり、民の祈りは聞かれず、涙すのみである。5節、新改訳では「あふれる涙」、新共同訳では「三倍の涙」となっている。小さな違いであるが、原語はシャーリーシュ、数詞の3を意味するシャローシュ、シェロシャーと語根を同じとする。新改訳の方が意訳調である。耐えがたい捕囚の嘆きを詠っている。
その惨状は、二つのイメージで語られる。迷える羊と荒れ果てたぶどうである。イスラエルは繰り返し、羊の群れとしてたとえられてきた(詩篇77:20、78:52)。しかし、今ここにあるイスラエルは迷える羊である。もはや羊飼いに導かれて緑の牧場と憩いの水際に伏しているそれではない。また、イスラエルはぶどうの木に例えられてきた。それは、エジプトの地からカナンの地へと移植されたぶどうの木である。神のあわれみによって、約束されたとおりに、イスラエルは繁栄を極めた。彼らは、根を張り、国中にはびこり、杉の大木のように枝を伸ばし、地中海からユーフラテス川に至る全土を埋め尽くした。しかし、その不従順の故に、彼らは、今や荒れ果てたぶどう園になってしまっている。
2.万軍の主への希望
詩人は、捕囚と破壊、そして荒廃の中で、祈りの手ごたえを感じれない中で、なおも哀願を繰り返す。1-3節、7節、14-15節、17-19節、特に、3節、7節、19節に同じ言い回しが繰り返される「神よ、私たちを元に戻し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。」その呼びかけは、「神よ」「万軍の神よ」「万軍の神よ。主よ」と丁寧になっていく。イスラエル民族だけの神ではなく、天地万物を支配する全世界の神、敵と思われる者をも含め、すべてを支配し、正しいことをなさるお方へと眼は向けられていく。
この詩篇は、エルサレム神殿で、神殿聖歌隊の指導者であるアサフの名によって朗誦された。大切なことは、北イスラエルの滅亡を、我がことのようにとらえ、十二部族全体の回復を願う祈りとなっているところだろう。それは、私たちに、とりなしの祈りがかくあるべきと教えている。
ところで私たちにとっては、物質的繁栄、また地位の回復が神の祝福、回復なのではない。むしろ、神との親しい関係を取り戻すこと、羊飼いに導かれる羊であること、成長し、実を結ぶぶどうの木であること自体が、回復である。祈れば(物質的に)祝福される、神に従えば(物質的に)祝福される、いつも私たちは、地上の目に見える事柄を祝福と考えやすい。しかし、祈る関係が保たれている事自体が祝福である。神に従う関係が保たれている事自体が祝福である。キリストの来臨と十字架によって成し遂げられたことは、私たちが神の羊の群れとして回復されることであり、さらに荒れ果てたぶどうの木から手入れされたぶどうと整えられることである。ユダ南王国も、またキリスト教会の伝統もまさにそこにあったのであり、私たちはいつでも、私たちを再び生かし、神様への信頼を回復させてください、と失われつつある者のために祈る必要があるのだ。そして、そのように祈ったユダ南王国もまた、イスラエル北王国と同じ過ちに陥ったことを覚える時に、自らも同じ弱さにあり、同じ失敗を犯す迷いやすさを持った者として謙虚に祈っていく事も覚えたいところである。私たちの神ではなく、正しいことをなさる万軍の主への遜った祈りこそ求められるのである。