83篇 敵も認めざるを得ない
おはようございます。詩人の祈りに教えられるのは、ただ単に、敵対者に対する復讐が成し遂げられるだけではなく、敵対者もまた神を認め、神の前に遜らされることを祈ることです。本来人間に敵も味方もありません。皆神に造られた者たちです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
「彼らは、心を一つにして悪を企み、あなたに逆らって、盟約を結んでいます」それは、エドムの天幕の民とイシュマエル人、モアブとハガル人、ゲバルとアモン、それにアマレク、ペリシテ、さらにはツロの住民。アッシリヤも、彼らにくみし、彼らはロトの子らの腕となりました。」(6-8節)とあるが、その時代背景はいつのことだろうか。エドム、モアブ、ハガル人、アモンは、ヨルダン東側の民である。またツロ、ペリシテは、ヨルダン西側の民。そして、アッシリヤは北方の強敵。このようにイスラエルを囲む三方向からの敵対的同盟が考えられる旧約の歴史的状況は、一説にヨシャパテの時代(2歴代20:1-20)とされるが、他に、これをある特定の時代のものとせず、様々な時代の様々な国々の攻撃を想定して詠まれたとするものもある。
いずれにせよ、この詩篇は、敵が騒ぎたち、悪の企みによって追い詰められた危急の時に、神の助けを求めるものとなっている。
2.歴史に支えられた祈り
そこで詩人が、どのように祈っているのかに注目しよう。彼は、士師の時代を振り返り、神がミディアン(士師6-8)やシセラとヤビン(士師4,5)になさったことを思い起こしている。まだイスラエルがカナンに定住し始め、国として未成熟であった頃、神の奇跡的な介入によって彼らは生き延びてきた。そこで思うことは、私たちの祈りが祈りとなるのは、私たちの祈りが歴史を生み出した時だ、ということだ。個人の祈りにしても、教会の祈りにしても、歴史を持つ祈りは強い。私たちはあの危急の時、あの困難の時を、神の不思議なる力によって乗り越えた、あるいは、神が沈黙されていると思われる状況で、神が私たちを見捨てず、私たちの力となられたという経験を有していることは、私たちに諦めない祈りを可能とする。
3.公正な神が認められる祈り
13節「彼らを吹きころがされる枯れあざみのように、風の前のわらのようにしてください」新改訳2017では、「私の神よ、彼らを、風の前に吹き転がされる、藁のようにしてください」と修正された。それは、ヘブル語本文にはない文脈からの補足である「枯れあざみ」を削除し、二行詩として訳出しようとしたためである。16節「彼らの顔を恥で満たしてください」詩人の祈りの表現はいささか過激にすら思えるかもしれない。しかしそこに「主よ。彼らが御名を捜し回りますように」と、復讐が成し遂げられるだけではない、そのように正しいことをなさる神ご自身が認められるように、という祈りがある。だから18節、その祈りは、全地を支配する神様が、ただ一人であることが思い知らされるように、とまとめられている。
しばし、人生には自分が根絶やしにされる、と思わされることがあるだろう。それは、神の守りを全く否定するに等しいことである。イエスが十字架上につけられた時には、「彼は神により頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。」(マタイ27:43)と、イエスが見下される以上に、神があざけられた。大切なのは、ただ自分が救い出される祈りで終わらせるのではなく、助けてくださる主の真実、主の栄光が賛美される祈りが献げられることだ。敵もまた神を認め、神の御前に遜り、心から仰ぐようになることを求めて、祈ることなのだ。