87篇 終末的ビジョン
おはようございます。聖書全体を貫く、神学というべきもの、神の主題というものがあります。今日の詩篇は、それが、あらゆる民族が一つに集められ、平和を享受するところにあることを語ります。では、それはどのように実現するのか、考えたきところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.神の選び
シオンが神の都として世界の中心となることを詠う、シオン賛歌と呼ばれる詩である。書かれた時代も作者もよくわかっていない。イザヤ書に通じる思想性からヒゼキヤ王の時代のもの、バビロンという用語からバビロン捕囚期の終わりごろ、あるいは、6節の「登録」という用語からエズラ、ネヘミヤ時代の住民登録の捕囚期直後と考える説がある。
いずれにしろ、この詩篇の重要性はその内容にある。3節「神の都」は、霊的に解釈すべきものなのだろう。「わたしはラハブとバビロンを、わたしを知る者として記憶しよう。見よ。ペリシテとツロ、クシュもともに。『この者は、この都で生まれた』と。」(4節)バビロンもペリシテも、ツロも異邦の民である。ラハブは、ここではエジプトを象徴する。「わたしを知る」の「知る」は、「選ぶ、選び出す」と読み替えられる。つまり神は、イスラエル人のみならず、近隣南北のあらゆる民を選び、ご自身の都に集められる、ということだ。かつての敵は回心し、神の都に参集する、それは「誉れあること」(3節)祝福されるべきこととして語られている。
2.誉れあること
このようなビジョンは、聖書に突如出てきたわけではない。それはまさに聖書の初めから語られている思想である。神はアブラハムに語られた。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」(創世記12:3)このすべての民族という言い方は、実は、直前の創世記11章のバベルの塔の物語を受けて語っている。創世記は天地と人類創造の記事から始まり、その人類が堕落し、やがて神の裁きを受けて、お互いに理解し合えない民となり地の全面に散らされたことを記録する。アブラハム契約はその流れを逆転させるものである。つまり創世記12:3には、散らされた人類が、アブラハムを通して祝福され、再び集められるビジョンが語られている。この約束は、イサクとヤコブに明示的に繰り返され、ヨセフの物語では、絵画的、暗示的に家族が再会するイメージによって語られている。この創世記の主題を受けて、イスラエルの民が宣教の民として選ばれ、人類を一つにする使命を担ったものの、それに失敗したというのが旧約聖書の記録だろう。新約聖書は、この使命が民族的なイスラエルから霊的なイスラエルに移されたことを語っている。だからパウロは、これを奥義と語っている(エペソ3:6)。パウロは、異邦人とユダヤ人が一つにされる、これが、キリスト者が実現すべきキリストの奥義である強調する。罪人を救いに導くこと、これが奥義なのではない、罪人を救い、キリストにあってあらゆる民族が一つとされる、これが奥義なのだと言う。
3.コラ人の終末論
5節「しかし」と新改訳は逆説的に訳すが、ここは「そして」と順接に訳す所のように思う。つまり、内容的に5-7節は、1-4節の強調であり展開であって、対比ではない。5-7節には、1-4節に語られた四方近隣の民族のみならず、あらゆる民族が集められて神を讃える、終末的な祝福のイメージが展開されている。それは、まさしく黙示録に描かれた、あらゆる国民、部族、民族、国語の人々が、一つにされる絵画的なイメージ(7:9)の実現である。こうしてこの詩篇は預言的に聖書全体を貫く神のビジョンを語り掛け、その完成を望ませている。もちろん、それは単純な世界平和を求めることではない。キリストの十字架のもとに、罪赦され、新しくされる新生の恵みが草の根的に広がることである。私たち自身が神の恵みによって新しくされることなくして、世界も新しくなることはないのである。