86篇 心を一つにされる
おはようございます。今日の詩篇は、第三巻には、珍しいダビデのものです。神への願い、祈りが献げられる中で、そこに、ダビデの神観がはっきりと語られます。神があわれみ豊かで恵み深いというご性質、そして、神の卓越性と御業。それは、ダビデがモーセの書に学んだものでしょう。その真理にしっかり立てるようになることがまさに信仰の修練なのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.祈りの願い:私の心を一つにしてください
久々にダビデの詩を読む。第三巻(73-89篇)の中では唯の一ダビデの作とされる。背景的に、1節「苦しみ」「貧しい」、7節「苦難の日」15節「高ぶる者が立ち向かい、横暴な者が命を求め」、17節「私を憎む」とあるが、ダビデのいつ頃のものなのかは、よくわかっていない。ただ、この詩篇は、ダビデの願いと神への賛美が織りなされる中に、ダビデが神をどのように見ていたかがよくわかる詩である。
ダビデは、まず、神に祈り願っている。1節「耳を傾けて」「答えてください」2節「お守りください」「お救いください」3節「あわれんでください」4節「喜ばせてください」、6節「耳を傾けてください」「心に留めてください」11節「教えてください」「私の心を一つにしてください」16節「御顔を私に向け」「私をあわれんでください」「御力を与え」「お救いください」17節「いつくしみのしるしを行ってください」。ダビデの願いを拾い集めて読んでいく時に、一つ具体性のある願い11節「私の心を一つにしてください」に注目される。新共同訳では「一筋の心をわたしにお与えください」である。「この道一筋」という言い方だ。訳出されたヘブル語のヤーハドが動詞として用いられるのは、旧約聖書においてこの箇所を含め3か所である。一つはヤコブの臨終の祈りの中で、シメオンとレビの仲間に「加わるな」という警告の表現の中で(創世記49:6)、もう一つは、バビロンの王に対する、あなたは墓の中で彼らと「ともになる」ことはないという警告の中である(イザヤ14:20)。基本的にそれは「一つになる」を意味し、ここでは、あれかこれか分かれた心が一つになる、ことを意味している。散り散りに乱れ、自身が崩壊しそうな危機感の中にあって、ただ神だけを恐れる一つの思いに落ち着くことを求めている。シリヤ語訳では「御名を恐れるために、私の心を喜ばせてください」と動詞のヤーハドを別の動詞ハーダーに読み替える訳となっているが、その必要はないように思う。「あなたの道」「あなたの真理」に心が定められて、神を恐れることに心が向かう、ダビデの思いの中心はそこにある。
2.神への賛美
では、ダビデは「あなたの道」「あなたの真理」をどのように考えたのか。それが、この詩篇の祈りの願いに散りばめられた神への賛美の中に示されている。まずダビデは、5節「いつくしみ深く、赦しに富み、恵み豊かである」(13、15節)「あわれみ深く、情け深く(15節)」と、神の愛のご性質について語る。また、8節「神に並ぶ者はなく、比べられるものはない」10節「大いなる方」である、と神の卓越性を告白する。さらに10節「くすしいみわざを行われる方」13節「よみの深みから救い出してくださる」17節「助け、慰めてくださる」お方である、と神がただ鎮座しておられるのではなく、私たちの人生に介入し何事かをなすお方であると信頼している。これは、ダビデが経験的に学んだというよりは、モーセの教えに親しんだところから来たダビデの確信というべきだろう(出エジプト34:6)。ダビデもまたモーセの書に親しんだのである。その教えられた「あなたの道」と「あなたの真理」にぶれない、深い信頼一筋に心を保ってください、ということだ。そうすれば、人は、正しく神を恐れて、「私に、いつくしみのしるしを行ってください」(17節)と祈り上げることができる。そしていかなる苦難にあれ、泰然自若の心をもって対処することができるだろう。信仰者の歩みとはそのようなものである。神の道、真理を深く心に留めて歩みたいものだ。