89篇 ほむべきかな主
おはようございます。第三回最後の詩篇です。73篇に相通るものがある、苦難にある中の祈りです。解釈の鍵は、2サムエル記のダビデ契約を地上の王国ではない霊的な王国として捉えるところですが、昨今の霊的な王国の破れを考えさせられるところがあります。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈
第三巻最後の詩篇は、第三巻初めの詩篇と相通じる内容を持つ。つまり、いずれも信仰者にとっての難問を扱っている。73篇では、悪者の繁栄について、89篇では、神の契約が破られ、その真実さが見えにいくい状況での苦悩について触れている。
詩人は、まず主を賛美する(1-2節)。それは、ダビデと結ばれた契約(3-4節、2サムエル記7:13-16参照)に忠実な主を賛美するものだ。そこで詩人は、5-18節において、さらに豊かな賛美をささげ、神が忠実であったダビデ契約についてもさらに詳しく語っていく(19-37節)。そして、神が契約に忠実でその契約を破らないと約束したことを確認していく(28、34節)。神は、ダビデを愛し、ダビデに格別にいつくしみと恵みを注がれた。神はダビデと、父と長子という関係を結ばれ、とこしえの契約を結ばれた。ところが!神はその契約を今破っているのではないか、というのが38節以降の訴えであり、大まかな流れである。
2.神の矛盾
「しかし、あなたは拒んでお捨てになりました。あなたは、あなたのしもべとの契約を廃棄し、彼の王冠を地に捨てて汚しておられます」(38、39節)神はダビデを高めると語ったが、そうではない。今ダビデの王国は戦いに負け、そしりを受け、敵にあざけられている(41節)。ダビデの王国の剣の刃は折り曲げられ、戦いに立てないようにされている(43節)。この恥辱の状況はいつまで続くのか(46節)。人の命は短いというのに、後先はそれほどもないというのに(47節)。人が自分を自分で救い出す力などないというのに(48節)。だから神よ。あなたの誓いをもう一度思い起こしてほしい(49節)というわけだろう。
さてこの祈りをどう理解すべきか。確かに、神の契約は、詩人が語るように歴史的破られたと思われた時もあった。イスラエルがバビロンに滅ぼされた時代、イスラエルの民はこの詩篇を読みながら、ダビデの契約が打ち破られた、と思ったはずである。もうエルサレムも、イスラエルの王国も二度と回復されることもない。絶望的な思いを持って、神の契約に対する真実さも、恵みももはやこれまで、と思わされたことだろう。だが、ダビデに対する神の契約は、イエス・キリストにおいて完全に成就するものである。それは地上のダビデ王国の実現ではなく、イエス・キリストにおいて完成する永遠の神の御国の完成を語っている。その契約は、永久に変わらないものなのである。
3.神の御国の完成を願う
だから、詩人は、ダビデ契約の意味を誤解していた、とも言える。新約の時代に生きる私たちには、神の救いの計画の全貌が知らされている。ダビデ王国は、もはや地上の王国ではない、霊的な王国を意味し、それは、完成途上にあると。だから地上のダビデ王国が滅びることがあっても、神の契約に対する真実は変わらない、と。
だが、そのように読んで終わってしまうなら、もはやこの詩篇は、博物館のガラスケースに納められた過去の古びた羊皮紙に記された詩に過ぎない。この詩篇が今もなお祈るべきことばとされるなら、それは、どんな理由からであろうか。実のところ、霊的ダビデ王国の破れや危機があるのではないか。霊的な神の御国が、そしりを受け、辱めを受けている、神の契約が霊的な意味においても破られているかのような嘆かわしい霊的な現実があるのではないだろうか。完成途上にある神の御国が、現代の世俗性に蝕まれている現実、そのために遜りつつ祈らねばならぬ現実があるのではないだろうか。