第4巻 90篇 知恵の心を持って歩む
おはようございます。第四巻に入ります。モーセの歌、となり、これまでの背景とは全く異なる状況で読まれているものです。しかも、その祈りの本質は、とりなしにあります。次世代のために、祈る言葉を教えていただくこととしましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.モーセの歌
第4巻(90-106)に入る。詩篇90篇は、伝統的にモーセの歌とされており、詩篇の中では最も古い。しかし「神の人モーセ」という表題の呼び方自体が後代のものであって、モーセの名を借りた捕囚時代の作と見る者もいる。しかしながら、ここでは、伝統的な立場で、この詩を味わってみることにしよう。
2.二つの背景
では、モーセのいつの時代に詠まれたのか。一つの可能性は、約束の地カナンに偵察隊を送り、攻めのぼろうとした、モーセが80歳頃の時である(民数13、14章)。その時、イスラエルの民は、信仰によって踏み出すことができなかったので、神が怒り、20歳以上の者は皆、荒野で滅びることを宣告された。そこでモーセは、「どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに、知恵の心を得させてください」(12節)と祈ったという。この詩の前半1-6節に注目すると、そこには、交互に、神と人の本質が何であるかが、繰り返し考察されている。2節「とこしえからとこしえまであなたは神です」に対して、3節、人は生まれては死ぬものである。4節、神は時間を超越したお方であるが、5節、人は、草木のように枯れて消えていく存在。人間は限界があり、その人生は限られた者である。永遠の神に比し、人は限られた命を持つ存在に過ぎない。そのはかない命の日数を意識することができるなら、人は、神を恐れ、神に懸けた知恵ある人生を生きるようになるだろう。神の命に応じて、カナン征服のチャレンジにいつしか出ていくことを臨むというわけだ。
またもう一つの可能性は、カナン攻略失敗後、荒野で40年間の放浪生活をした最後の数カ月、モーセ120歳頃の時である。多くのイスラエル人は、荒野で、繰り返し神の怒りに触れ滅びて行った。モーセは、信仰がいかに大きな損失をもたらすのか、40年近い荒野の生活で学んだ生き証人である。そして荒野では次の新しい世代が興っていた。その新しい世代が、日々、主の恵みに満ち溢れた人生を生きるように(14節)。神を恐れ、自分が神に造られた被造物であることを正しく認識し、海が分かれて奇跡的なエジプト脱出を果たした、あの時と同じように、神の御威光を味わうことができるように。「ちりに帰れ」(3節)と怒られた神の言葉を受けて「帰ってきてください」(13節)と、新しい世代の祝福のための祈りがささげられている。
3.次世代への祈り
大切なのは、この祈りは、神の真実さ、神の恵みの確かさをこれから信じようとする者の祈りではないことだ。神の恵をすでに体験している者が、そのありえない神の恵みを再び得させてくださいという祈りである。主のあわれみに寄りすがることが私たちにとっての最善であると聞かされている者の祈りではない。実際にその神の計り知れないあわれみを体験している者が、再びその恵みを豊かに味わうことができるように、という祈りである。そしてそれは次世代のための祈りなのである。となれば、モーセ120歳の時、荒野から約束の地カナンへ出て行こうとする時の祈りであり、これからチャレンジしていく、次世代の者たちのための老齢者の祈りと読むことができるだろう。これまでの祈りは、自分の救いを祈るものが多かった。苦しさの中で、神のあわれみを求める祈りが多かった。しかし、この祈りは、明らかにとりなしの祈りであり、これから主の使命に立とうとする次世代のための祈りが特徴である。今日は具体的に、自分の子ども、後輩を覚えて祈りたいところである。