詩篇96篇

96篇 終末の王

おはようございます。第四巻には、礼拝の詩篇として礼拝的生活を促す一連の流れがあるようです。96篇は、その流れの中に、終末的および宣教的な視点を加える詩篇です。主を恐れる信仰とその人生によって証する歩みを大事にしてまいりましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

ギリシャ語の七十人訳聖書の表題は、「捕囚後に、主の宮が建てられた時の、ダビデの歌」となっている。確かに、捕囚後書かれたとされる1歴代誌に、この詩篇と同じ歌詞がある(1歴代誌16:23-33)。ダビデの時代に書かれたものが発掘されて収録されたのか、捕囚後に、ダビデ風に書かれたのか、また詩篇は、どちらをベースにしたのか、よくわからない。ただ1歴代誌は、神の箱をエルサレムに迎える賛美の歌で、臨在される主が地を裁くように願っているが、詩篇96篇では、世界を裁くために来られる主を賛美し、礼拝するようにと呼びかけている。

また90篇から第四巻に入るが、それは人生を知恵深く生きること(90篇)、それは主を恐れることにあり、と91篇につながっていた(箴言1:7)。そして主を恐れることは、すなわち至高なる主(92篇)、万物の王(93篇)を認めて仰ぐことを意味していた。94篇は、そのように主の権威を認めていくことは、日常性、しかも逆境においてであること、つまり実践的信仰を教えていた。95篇は、90-94までの要約のようなもので、創造主を仰ぐ信仰と生活における主への従順が語られていた。つまり第四巻は礼拝のための、そして日々の礼拝的生活を教え諭す詩篇と考えられるのだが、詩篇96篇は、世界を裁くために来られる主を賛美せよ、と主を恐れることへの終末的な視点を新たに加えている。

構造はいたって単純である。初めに主を賛美せよ、という宣告(1-3節)、賛美すべき主の尊厳、異教の神々に比べた主の素晴らしき尊厳(4-6節)、そして再び、主を礼拝せよ、という宣告(7-9節)、最後に、終末的主の支配とさばきへの信仰と告白(10-13節)が述べられる。

2.宣教的視点

さらに注目すべきは、主を恐れ、主を王として仰ぐことの宣教的視点の追加だろう。1節「新しい」と訳されたヘブル語はハダシュ、おおよそ詩篇では、主の解放に関連して使われることが多い。単純に古い歌に対して新しい歌を、というのではなく、御救い(2節)に基づいた新しい歌を、と言っている。そして、2節「告げよ」、3節「語り告げよ」、10節「国々の間で言え」と勧められている。

大事なことは、私たちが自らに起こった救いの御業を語ること、それ自体が証しであり、宣教となることだ。伝道会やイベントを大々的に開いて、人寄せをし、福音を語ることだけが宣教なのではない。その前に、まず私たちがまことに終末の主を恐れて、主に心を開き、主にある罪の赦しを受け、そのことを心から感謝し、神に新しい歌をささげていく、そのような礼拝的な生活を送ること自体が、そしてたとえ逆境に巻き込まれても、神の支配を信頼して生きることが証となり宣教となることを考えたいものだ。私たちの信仰とそれに基づいた新しい人生が、大いなる証となり、教会を建て上げていくものとなるのだ。

13節、「主は~地をさばくために来られる」とある。「さばき」は、士師記の「さばきつかさ」と同じ動詞である。10節の「さばき」は法廷的な用語であるが、これは裁判のみならず、治める、統治する、を意味する政治的な用語である。今の世において、私たちは、神が全世界の支配者であることを、信仰をもって受け止めるのみである。しかし、終末においては、万物の支配者である主の存在が誰の目にも明らかにされる。主の威厳と威光を信仰的に確信する自らの歩みをもって、主を証しする使命にしっかり立たせていただきたい。

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