2章 愛が止まらない
おはようございます。伝統的に、雅歌は、女を思う男に、神の不合理な深い愛を重ねて解釈されてきたところがあります。確かにそういう部分もあるでしょう。しかし、結論をもう少し先に延ばして、歌劇とされた雅歌の楽しさを味わってみたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ただあなただけ
シュラムの女はたとえて言う。自分は「シャロンのばら」であると。第三版ではサフランと訳されていた。そもそもシャロンは、地中海に接して、ヨッパからカルメル山麓に伸びた平野を指す。かつては、ワニも住む湿地帯だったようで、そこに群生した色鮮やかな赤い花と考えらえれる(5:13)。また、谷間を埋め尽くすゆりの花。それは、蓮かスイレンに似た花でベルの形をした白いゆりではなかったようだ。つまり女は自分が普通の花だ、と言いたいのだ。しかし女を愛する者は言う。そんなことを言っても、あなたと比べたら他の女はいばらのようなものだ、と(2節)。確かに、自分の惚れた女を、世界で最も美しい人だと思わずにいられない男はいないだろう。女も、同じである。自分が好きになった男は、誰よりも素晴らしい(3節)。いささか、むず痒いほどの、二人だけの対話である。病にも似た、若い男女の恋愛は、そんなものだ、と読み流すところなのだろう。
4節、どうもここからは、二人の愛の思いの絡み合いが、身体的な一体感として表現されている。リンゴもそうであるが干しぶどうは、古代イスラエルでは愛の営みのかたわらに楽しむもの、愛の営みの楽しみを高揚させる薬剤であった。もう若い頃のことは忘れてしまったが、愛の病に対処するにはエネルギーが必要なのだ。だが、女はどこか冷静である。愛は一瞬の快楽ではない。互いに受け入れ、支え合い、建てあげていく時を過ごすことである。喜びも悲しみも、楽しみも苦しみをも一切を分かち合う積み重ねられた日々である。深く心を通じ合い、老いても支え合う絆である。だからいたずらに「揺り起こしたり、かき立てたり」(7節)せず、時と共に自然に育ち実を結ぶことを大事にしなければならないのだ。
2.愛を止められない
8節からは、男が女の心を汲みながら、女の立場で歌を詠んでいることに注意したい。10-15節は男のことばであるが、16、17節は再び、女の心を汲む男の歌である。つまり、男は女の思いを巡らし、理解しながら自分の愛を語っている。大切なのは、この詩は、演劇形式において上演されたものだ、ということだろう。雅歌は、読むためのものではなく、聞いたり見たりするための歌なのである。だから舞台監督になって、場面構成をしてみるならば、ここで彼らがいかに愛の病を止められない思いでいるかを感じるところである。
「冬は去り、雨も過ぎて行った(11節)」「刈り入れの季節がやってきて(12節)」時は、春の祝祭の季節である。「ぶどう畑を荒らす狐や小狐(15節)」、そして命溢れる春の草原で草を食む「若い鹿」(9,17節)。彼らの愛を妨げようとする邪魔者たちと、密かに愛に燃える二人の場面が対象的である。そして、女の心を推し量りながら、二人だけの世界を語っていく男の台詞が、止められない愛を深く語っている(つづく)。