3章 婚宴
おはようございます。いよいよ、二人の愛が実を結び、婚宴のシーンへと入っていく場面です。聖書の解釈においては、繰り返しのフレーズに注意することが一つの原則ですが、ストーリーが一つの繰り返しにより効果的に進展していることを押さえたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.愛は追いかける
二人の時を過ごし、別れた後、女は、不安に駆られたのであろう。あるべきものがない、心にぽっかり穴が開いたような思い、女は愛し慕う男を捜し始めた(2節)。当時女が夜、通りや広場を歩き回ることは危険な行為であったはずだ。しかしそれでも、自分を虜にした愛する者を捜さずにはいられなかったわけである。町を行き巡る夜回りに怪しまれても、一時も離れぬことができない、愛の病が、女を突き動かしていくのである。ただこれは、女の夢あるいは空想と解釈するのがよいのだろう。ある精神科医が、人の夢は、カタルシス(浄化)であると言った。人は夢の中で、現実の様々な葛藤を処理している、というわけだ。と。
女は男を捜し当て、もはや決して手放すことはしまい、と覚悟を決めている。6節以降の婚礼の行列に繋がることを考えれば、結婚の決意と理解してもよいのだろう。
ここから雅歌は、後半へと入っていくのである。雅歌の全体の構造は、5節、「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは」という繰り返しによって区切られている。一回目の2:7のことばは、恋愛中の二人の愛がいたずらにかき立てられることを押さえようとする効果をもたらしていた。二回目の3:5は、ゴールインした二人が、もはや感情的にかき立てられてもよい時期に達したことを確認しているのである。そして、最後の8:4は、日本語の聖書では、あまり違いを感じることができないフレーズとなっているが、ヘブル語本文では、同じ構文でありながら、イムという副詞がマーという疑問代名詞に代わっている。つまり「どうして揺り起こしたり、かき立てたりするのですか」という意味で、愛はすでに成就しているのに、という意味である。この決まり文句が、実に、二人の愛の進展と成就を確認する効果をもたらしている。
2.婚宴のパレード
6節からは、婚宴のシーンとなる。二人の愛はいよいよ深まり、実を結ぶ。「煙の柱のように」(6節)は、女を迎えに来る行列のことである。そして女が愛した男は、ここで初めてソロモンであることが証される(7節)。1列王記10章を開くなら、シェバの女王がどのようにソロモンのところに来訪したのかを知ることができる。その逆バージョンである。ソロモンの豪奢な婚礼の行列がイメージされる。またそれは、詩篇45篇の王の祝婚歌をも思い出させるところだ。大切なのは、それがメシヤ詩篇として初代教会には理解されたことであり、となれば、この雅歌もまた、そのような性格を帯びていることを心に留めることなのだろう。単なる世俗的な愛を寿ぐものではなく、イエスと私たちとの関係を語る象徴的な深さを持つということだ。雅歌の様々な表象を用いて作られたバッハのカンタータBWV140 「目覚めよ、とわれらに声がよびかける」は、その解釈に基づくと思われるものである。