18章 アブサロムの死
<要約>
おはようございます。アブサロムの謀反は実に残念な結末で終わってしまいました。ダビデは父として、否定的な感情に耽るのみで、組織の長としては機能不全状態に陥ってしまいます。先王のサウル王も王として失格であったとはいえ、果たしてダビデもまた、王となってよかった人なのか、どうなのか、というのが本当のところでしょう。しかし、リーダーとして相応しい人間など誰もおらず、ただ、神のあわれみによってその立場を与えられ、働きが守られているというのが本当なのではないでしょうか。自信過剰にならず、自分の不足を覚えつつ、ただ与えられている職務を全うすることに主の助けと恵みを望むことが大切のように思われます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.アブサロムの記念碑
生前アブサロムは、自分のために記念碑を立てていた。「私の名を覚えてくれる息子が私にはいないから」という。実際には、アブサロムには、三人の息子と一人の娘がいた(2サムエル14:27)。「息子が私にはいないから」というのは、恐らく三人の息子を幼くして亡くした事情を語るものなのだろう。だから彼は自分が生きた証しを残すために、一本の柱にかけたのである。今日ケデロンの谷には、アブサロムの塔と呼ばれるものがある。しかしそれは、約1世紀頃に建立された別物であるとされる。そのような意味では、彼は、生きた証を残したが、それは不名誉な証である。サウルも同じように、自分の記念碑を立てている(1サムエル15:12)が、大切なのは、後世に何を残すかであろう。ただ生きたというのでもなく、生きて不名誉な結末を残したというのでもなく、後世に希望と励ましを与え、命を与えるものを残しうるかである。
さて戦闘の舞台は、ヤボク川付近のマハナイムの森であった。そこは、戦略的に非常に興味深い場所である。というのも、サウルの子イシュ・ボシェテは父の死後、ペリシテやダビデの勢力の強いヨルダン川西側を捨て、東側にあるマハナイムを首都にして王に即位している(2サムエル2:8)。またダビデも、息子アブサロムの反逆によりエルサレムを退かねばならなかった時、この町に逃れてエルサレム奪還の機をうかがった(2サムエル17:27)。アブサロムもまたその地に逃れた。そして、不幸にもアブサロムは、追っ手から逃れる途中、髪が木に引っ掛かって宙吊りになっているところを発見された。将軍ヨアブがそれを知るや否や、駆けつけて、身動きできずにぶらさがっていたアブサロムの心臓を一突きして殺してしまう。ヨアブにとっては、自分が面倒を見て、国外追放の身から王宮に戻してやったのに、このざまはなんだ、というものであったのだろう。これ以上甘やかされた不憫な息子を生かしておいてもイスラエルのためにはならない、とヨアブは、アブサロムを見捨てた。そして手加減を加えるようにと語る王の命令を無視した。こうして一度将来を嘱望されたアブサロムの人生は幕を閉じた。彼は記念碑を建てたが、彼の墓は、石くれの山で終わってしまった。なんとも、寂しい結末である。
ただ、教訓的である。というのも、私たちの人生も、たとえ長く生きながらえることがあっても、その結末は自分が思うとおりにはならないものだ。しかしそうであればこそ、神に自分の人生をゆだね、神に覚えられることを何よりもよしとする歩みを求めていくべきなのだろう。人に覚えられることを思うあまりに一瞬の泡沫として消えてしまうような人生よりも、神に覚えられ、神に愛され、迎えられる人生の方がよい。
2.ダビデの感傷
さてアブサロムは、そんな愚かな息子ではあったが、ダビデにとっては、やはり血を分けた息子である。ダビデは、息子の死を悲しんだ。子は特別なものであり、自分の分身である。父は、子が悔い改め、子と和解できる可能性を期待していたのである。
確かに子は必ずしも自分が思うようには育たないものだろう。そしてそこに、自分の子育ての非を思わされることはあるものだ。姦淫の一事件が、子に悪影響を及ぼしたという以上に、その事件に至るまでの子に対する無関心、養育的関わりの弱さが、このような落胆すべき結果を引き起こすことになったと思わされることへの悔いである。子を全うに育てられなかったと思う後悔は、それこそ自分の命と引き換えに、不憫な子どもの祝福を願うところでもあるだろう。
ただ現実問題として、子育ては親の責任にのみ帰せられるものではない。社会の中で子は育ち直しをしていくものであるし、神もまた私たちの不足をフォローしてくださる。たとえ、私たちが罪や咎を犯しても、その報いをそのまま家族に負わせ、子がその不幸を刈り取るようなことはない。「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。」(エゼキエル18:20)とあるごとく。
神のあわれみと慈しみは深い。聖書は言う。「【主】はあわれみ深く情け深い。怒るのに遅く恵み豊かである。主はいつまでも争ってはおられない。とこしえに怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず私たちの咎にしたがって私たちに報いをされることもない。天が地上はるかに高いように御恵みは主を恐れる者の上に大きい。」(詩篇10:8-11)子育ての不足を覚え、感傷的になることはあっても、そうあり続けてはいけないのである。そして確かに、ここで問題となったのは、組織の長であるダビデが、個人的な事情に落胆し、感傷的になり、指揮をふるえなくなったことだろう。彼は組織の長として、現実的でも適切でもなく、あまっさえ自己を保つことができず、機能不全に陥っていた。大切なのは、人間は誰でも個人的な事情を持ち、否定的な感情に耽り、一歩も先へ進めぬ思いになることはあるものだが、そこに、自らの務めを忘れず、神の助けに寄り頼むことである。いつでも主の守りと助けを覚えて健全な判断と歩みを導いていただくこととしよう。