10章 主の霊に導かれるサウル
<要約>
おはようございます。サウル王の気持ちとは別に、サウルが王とされたことのしるしが一つ一つ確認されます。そして王を立ててくださる神を無視した民の現実が、明らかにされて行きます。私たちは物事の本質を見誤ってはならないのでしょう。私たちに王を備えてくださる神にこそ期待しなくてはならないのです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.サウルが王とされたしるし
突然降りかかった偉大な責任に、サウルの心はそれを受け止める十分な備えがなかったことは確かであろう。サムエルは、サウルが王とされたことの三つのしるしを告げていく。一つは、ラマのラケルの墓で、彼の父のろばが見つかったことを知らせてくれる二人の人物に出会うことであった。ラケルの墓は、現在ベツレヘムの北にあるが、それは十字軍によって建立されたもので、エレミヤがラマにあったとする聖書的な記述とは異なっている(エレミヤ31:15)。第二のしるしは、タボルの樫の木で、聖所に上る三人の人に出会うことである。4節、パンを受け取るというのは、サウルが主に油注がれた者として、聖なる者であり、聖なるパンを食べる資格があった、ということである。第三のしるしは、恐らく彼の町ギブアの高き所で、神の霊による力を受けることであった。6節「あなたは新しい人に変えられます」というのは、文字通りには「ひっくり返させられる、変身させられる」を意味する。果たしてこれらのしるしはみな成就した。「これらのしるしがあなたに起こったら、自分の力でできることをしなさい。」と言う言葉が印象的である。自分の力でできること、ギデオンもあなたのその力でいけと言われた。神は偉大な職務に召されるが、それは背伸びをしてするようなものではない。神があなたとともにおられる、という。
2.サウル王制のスタート
そこでサムエルは、ミツパに民を呼び集めた(17節)。そして語る。「ところで、あなたがたはきょう、すべてのわざわいと苦しみからあなたがたを救ってくださる、あなた方の神を退けて、『いや、私たちの上に王を立ててください』と言った」(19節)どうしてサムエルは神を退けて、と言ったのだろうか。すでにモーセの時代、「王を立てたいということが起こったならば、あなたの神、主の選ぶ者を、必ずあなたの上に王として立てなければならない」(申命17:14)と述べられている。つまり、イスラエルではサムエル以前に王制国家になる可能性が考えられていた。となれば神は、モーセの時代には肯定したが、サムエルの時代には心変わりしたのだろうか。いやそうではないだろう。現に、創世記17:6には、モーセ以前に神が、イスラエルを国家にし、王を立てると約束されている。つまりイスラエルが王制国家に移行するのは、歴史的必然性であるばかりか、神の元々のご計画でもあった。モーセは、国家設立の条件を語ったに過ぎない。
そこでサムエルがこの王の即位宣言をミツパで行ったことを心に留めるべきなのだろう。ミツパは、サムエルがイスラエルの民のためにとりなしをし、ペリシテ人に勝利し、イスラエルの領土を解放した記念碑、エベン・エゼルを立てた近くである。つまりサムエルは、ここまで彼らを導いた本当の指導者が神である、と明確にされた場にあって、その神よりも王に期待を抱いている民の現実に目を向けさせている。国家設立にあたり、イスラエルの民が神よりも、王を重んじ、王や国家に甘い期待を抱くことへの警告を与えているのである。
私たちはどこまでも、神ご自身に期待と信頼を寄せるべきなのだが、神よりも、目に見える何かに期待を寄せてしまいがちである。たとえば、色々と仕事がうまくいかないというので、転職をすれば、あるいは転勤すればうまくいくのではないか、と思う。それで仕事を変える。あるいは結婚して家庭を持ちさえすれば、もっと自分の人生は変わっていく、と考えてしまう。問題は、神よりも、神ではない何かに過剰に期待を抱き過ぎることにある。イスラエル人は国家を持ちさえすれば、今とは違うと考えたように。今はうまくいかないけれど、今の状態を変えれば、場所を変えれば、人を変えればうまくいく、というのは、単なる甘い期待であって、本当の解決ではない。神の導きに信頼することである。
イスラエルの民は、確かに他国並みに軍隊と官僚制度を組織し国家を持つ時にあった。しかし国家の命運を左右するのは、王の指導力でも、軍事力でもない。万物を支配し、導いておられる神である。そこを忘れて国家を建てようとしても、だめなのである。7節「このしるしがあなたに起こったら」とある。またサウルに勇者を付けてくださったのも神である(20節)。物事が動いていくように、働いてくださる神様ご自身にこそ私たちは期待しなくてはならない。神の祝福があってこそ、生活には豊かさが出てくる、喜びが出てくる、守られていく。よくしてくださるのは、主である。新しい仕事でも、伴侶でも、土地でもない、偉大なことをしてくださるのは、主である信仰に立たせていただこう。