14章 ヨナタンの活躍
<要約>
おはようございます。サウルとヨナタンの対照的な姿から、霊的な指導者のありようを教えられるところです。指導者でなくしても、私たちが霊的であろうとする時に、どのような事柄が大事なのか、確認しておきたいところですね。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.サウルとヨナタンの違い
13章では、神の指導者が、まず神の視点から物事を見ていく力を持つべきことを学んだ。続く14章で、サウルとヨナタンの対照的な姿から学ぶことは、指導者が人を霊的に鼓舞する力を持つべきことである。
1)霊的な決断力
ペリシテとの戦いが始まった際に、サウルはざくろの木の下にとどまっていたが、ヨナタンは、ペリシテ人の先陣のところへ渡っていき、これを討った。ヨナタンはサウルの優柔不断に我慢がならなかったのかもしれない。父に秘密裏に行動するのである。
また、サムエルの支持を失ったサウルは、エリの曾孫で、相続により大祭司となったアヒヤに導きを求めている。誰かを頼らざるを得ない気持ちがあったのだろう。しかし、サウルは大祭司をあてにしていたわけでもない。導きを求めようとはしているが、大祭司と話している間に状況が変わると、それに気を取られて大祭司に「もうよい」と言っている(19節)。聖書はあってもなくても同じ、そういうあり方に通じている。
一方ヨナタンは、心が神に結びついた人であり、自分の部下を霊的に鼓舞する人物であった。ヨナタンは、先陣のところによじ登り、「一くびきの牛が一日で耕す畑のおおよそ半分の場所で」(14節)つまり、英訳のNIVによれば「およそ半エーカーほどの広さのところで」とあり、約2000平方メートル(約600坪)の広さのところで、ペリシテ人たちを討ったという。ヨナタンと家来が乗り越えた峡谷は、まともな人間ならば決して考えもしない急峻の崖をよじ登り、まさに奇襲攻撃をかけたのであった。突如現れたヨナタンの姿にペリシテ人は度肝を抜かれたのだろう、陣営は騒然とし、主がさらに介入されたので、同士討ちが起こり、大恐慌となった。こうしてエフライムの山地に隠れていたイスラエル人たちも、戦況の変化を知るや、勝利の分け前に与ろうと戦いに加わっていくのである。
2)霊的な影響力
サウルの失敗は、神の器として、イスラエルの民を鼓舞しえない所にあった。指導者に必要なのは、霊的決断と霊的な影響を及ぼす力である。人間にはいつでも望みのない状況が起こりうる。絶望感を募らせるそんな状況がある。しかし、神の器は、その行き詰まりの果てに、神の働きを信じ、希望を持って、他人を奮起させる力を持っている。説教というのはそういうものだ。神のことばを預かり伝えるというのは、結局は人を神にあって奮い立たせることにある。信仰によって神を見上げ、整えていくところにある。
ともあれ、サウルにそのような霊性はなかった。むしろサウルは人間を頼みとした。それは、力のある者、勇気のある者を見つけるとすぐに召抱えようとしたところにも現れている(52節)。だが、ヨナタンは、「主がわれわれに味方してくださるであろう。多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない」と神に信頼し、人間的なものを頼みとしていない(6節)。
3)霊的な柔軟性
またサウルは、民に誓わせ、食物を絶つことを命じる。これは何とかしてペリシテ人を追い込めようとするサウルの執念であったのかもしれないが、まさに、避けなければならない軽率な誓いであった。ヨナタンはそのような意味のない誓いには耳を貸していない。むしろ、ヨナタンは、果てしなく持続する戦闘を有利に進めるために元気を回復することに意を注いでいる。
しばしば、指導者の目の付け所が問題になる。枝葉末節ばかりに目が向き、重要なことへの優先順位が狂っていることがある。サウルは指導者として誤りも多かったが、総括的には、「彼は勇気を奮って~イスラエル人を略奪者の手から救い出した」(48節)という。サウルは確かにイスラエルをまとめ、侵略者に対抗し、これを撃退する偉大な指導者であった(1サムエル9:16)。しかし彼には、主を認めて歩むことの弱さがあった。彼の成し遂げた働きは大きかったにもかかわらず、神の民をまとめる霊的指導性には乏しさがあったのである。何事も、どのように物事を進めるか、価値の部分が大切であり、キリスト者であるならば、霊的な価値を大事にし、霊的なあり方が求められるところである。