1サムエル記15章

15章 悔やまれた王サウル
<要約>
おはようございます。神がサウルを王にしたことを悔い、王として退けられたエピソードが記録されます。なぜ彼が王として退けられたのか、結局、彼には、自分が誰によって王として立てられた者であるかを認める力に乏しいものがありました。彼は神を自分の主と認めていなかったのです。主を認め、主に従う、神との関係を深める歩みをさせていただきたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.主の命令
「アマレクを討ち、アマレクに属するものを一切、滅ぼしつくせ」いわゆる聖絶の戦いが命じられている。ただここで注意したいのは、この命令が「イスラエルがエジプトから上ってくる道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を、わたしは罰することにした」という背景によるものであることだ。つまり神は、最近のことではなく、随分過去のお話、200年以上も昔の事柄を持ち出して、その復讐を命じているのである。モーセにイスラエルが率いられてエジプトを脱出した時代にこう命じるのならまだしも、それから幾世代も経たサウルの時代に、このような命令が下されるのはなぜか?そこがまず引っかかる所である。どう考えるか。神が語るアマレクの妨害の性質を理解することが大切なのだろう。つまり彼らの妨害は、単に過去において、パレスチナに入ろうとしたイスラエルを一度通せんぼしたというのではなく、神がアブラハムに約束されたご計画、つまりイスラエルをカナンの地に定住させようとしたことに敵対し続けてきたということなのだろう。サウルがこの聖絶から、逃れさせようとしたケニ人は、モーセの義理の兄弟ホバブの子孫であり(士師4:11)、その子孫はカナン征服と定着時代にもイスラエルに協力的な民族であった(士師1:16)。神のご計画に逆らい続けてきたアマレクを聖絶せよ、ということなのだろう。
2.サウルの応答
サウルが命じられたのは、神の戦いを戦うこと、つまり聖絶である。アマレクに対する防衛戦でも侵略戦争でもない。だからサウルは、主の軍の将の指揮下にあって、絶対服従を余儀なくされていた。彼は、徹底して、主の命令に従わなくてはならなかったのである。だが、サウルは、勝利を収めた時に、これを神の勝利ではなく、自分の勝利としてしまった。だから、彼は本来神のものであり、神に献げ尽くさなくてはならない神の戦利品を自分のものとしてしまうのである。
そこに主のことばがサムエルに臨んだ。サウルが神の言葉を守らなかった、と。そして主は、サウルを王位から退けられる、と。そこで、再びひっかかってしまう。なぜ、主はこれほどにサウルに厳しかったのか、と。
今日考古学的発見により、サウルの住居跡が、ギブア(テル・エル・フル)にあるとされている。それは、大きな長方形の構造であり、一角に塔が立てられている砦である。ダビデやソロモンの王宮に比べれば、それは権勢ではなく防御のために設計された非常に質素なものである。サウルは、明らかに、自分の偉大さを大掛かりな建築によって誇示するような人物ではなかった。彼は自分の栄誉を求めることには控えめであり、遠慮すらした。そして、ダビデのようなおぞましい罪を犯すこともなかった。けれども、サウルは厳しく罰せられ、王位から退けられるのである。何が問題だったのか。
彼は、「アガグと、肥えた羊や牛の最も良いもの、小羊とすべての最も良いものを惜しんだ」という。だから、物惜しみをする彼の人間的卑しさが問題であったとする者もいる。けれども事はそんなに単純ではない。そのような我欲に満ちた人間などいくらでもいるのであり、それはかの王位を退けられなかったダビデも同じである。むしろサウルが王としてふさわしくなかった問題点は、エピソードに出てくる彼の発言に、ヒントがあるのだろう。彼は言った15節、「兵たちは、あなたの神、主に、いけにえを献げるために、羊と牛の最も良いものを惜しんだのです」サウルにとってサムエルの神は、「あなたの神」であり、「私の神、私たちの神」ではなかった。また、サウルは繰り返した20、21節、「私は、主の御声に聞き従い、主が私に授けられた使命の道を進みました。…兵たちは」彼は、兵たちはと、責任逃れをしていたのである。エバに罪を擦り付けたアダムの罪を思い起こすところだろう。
サウルは、神を信じているようでありながら、自分の主とすることはなかった。そして、指導者として、部下の責任を取るような人間ではなかった。そうであれば王位から退けられて然るべきということではないだろうか。
サウルは、自分の罪を認めている。人を恐れ、神を恐れなかったことを告白している。しかし、その悔い改めに深さはない。彼は、自分の罪を民の前でごまかそうとした。サムエルもサウルの名誉を守ったが、本来彼は神に従わなかった罪を、真摯に悔い改めるべきだったのだろう。結局、サウルは、異教の神を、イスラエルの神に挿げ替えて信じているだけの世俗的な王であった。そこが神の悔いられた点というべきだろう。
3.真の信仰者として歩む
多くのクリスチャンにとっても示唆的なことは、聖書の神を異教の神に挿げ替えて信じているだけ、霊的深さのない信仰を持つことが、どれほど害悪であるかということである。ごまかしも罪であり、偽りも罪である。しかしそれ以上に神を信じても、神を主と認めて、従うことのない信仰生活ほど、無為なものはない。ただ形だけの信仰生活を歩むのではなく、神との距離を縮め、神に生きる人生を歩ませていただきたいものである。

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