16章 選ばれた後継者ダビデ
<要約>
おはようございます。サウルが退けられ、ダビデが新しい指導者として選ばれて行きます。サウルが退けられた理由は、彼が自ら神を認めていなかったこと(15節)、最終責任者であるのに、責任転嫁する人(21節)、そして、神よりも、自分を重んじる人であったこと(25,30節)からです。ダビデはいかに?ダビデの人生に学んでいきます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.新しい指導者ダビデ
新しい指導者ダビデが選ばれていく。神がどのような人を指導者として選ばれるのか。神の選びの原則は、「人が見るようには見ない。人はうわべを見るが、主は心を見る」と人間の理性的な判断とは異なっている。だれ一人として、エッサイの家族の中から、ダビデが王として選ばれることなど考えもしなかった。「末の子」という言い方には、単に年少であるという以上に、最も小さな者、つまり数に入らないという意味もあった。ダビデは家族の中では、人選の内には入らなかったのである。
しかしすでに聖戦は神の戦いで、そのことが明らかとなるような選び、つまりは最もありえない器が選ばれるように、ダビデもまた人間が最も考えにくい人選だったのである。旧約と新約はそういう意味でも連続性があるのであって、パウロ的に言えば、「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を神は選ばれました。すなわち、有る者をない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです」(1コリント27-28)。ということになる。そういう意味では、どんな人も神への期待を持ってよいのだし、「私なんか」といういじけた心は捨て去ることである。「私なんか」と思う人をも、神は覚えておられる。そしてむしろ、ご自身の有用な器とされる。
2.サウルとダビデ
サウルはダビデの素性を知らなかった。サウルにとってダビデは、下々の多数の一人に過ぎなかったのである。サウルは、ダビデの竪琴を喜び、ダビデを愛したというが、サウルの関心は心を安らがせる竪琴の音にあって、竪琴を弾くダビデにはなかった。美しい音色を奏でるこの人物がいずれ自分にとって代わるようになるとは全く想像もしていなかったのである。
ともあれ神は、選ばれた以上、その力を注いでくださる。サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油を注いだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下ったという。サウルにも霊は注がれた。しかしサウルは、その霊を守ろうとしなかった(2テモテ1テモテ6:20)。ペンテコステの日に、天から聖霊が下り、それによって弟子たちが偉大な働きをしたように、神の聖霊は、私たち一人一人にいのちを与え、生活を変え、私たちに神の恵みの業をなさせてくださる。
しかし、それは実際どのようにして起こるのか、サムエルは興味深いことに、ダビデがサウルにつながっていくエピソードを収録している。サウルはサムエルの支持を失った後、深刻な不安に襲われ精神的な病に陥っている。「主の霊がサウルを離れ、主からの悪い霊が彼をおびえさせた」というのは、サムソンが神に敵対した状況に通じる。神に心が敵対する時に、神は、その者を守ることができない。サウルは人の助けを必要とするようになる。そこにダビデを知る家来がいた。神のなさることは不思議である。確かな人脈というよりも、小さなきっかけが大きな結果を生み出すことになる。人の思いもつかない方法をもって、神は私たちの人生を導かれる。そこに、いつでも、私たちの希望がある。そうであるからこそ、無名のダビデが、イスラエルの王であるサウルに近づき、サウルに召し抱えられることも起こる。それは、ヨセフが奴隷の身でありながら、小さなきっかけによってエジプトの大臣に導かれるのと似ている。大切なことは、神は一人一人を選び、その選びの器が引き立てられるのも、神の不思議な導きによる。自分が浮かばれるために自分を売り込む必要はないし、また、ある地位に執着して、権利を主張する必要もない。神がご計画された以上は、私たちが思わぬ方法で、すべてが導かれていく。今日も、主の不思議を覚え、主にあって希望を抱き、主の与えられた小さなつとめに忠実であろう。