<要約>
おはようございます。聖書通読は進んでいますか。中断した人も諦めずに、また再開しましょう。聖書の世界の素晴らしさがわかっていけば、通読は止められなくなります。そのためには、忍耐を持って、一歩一歩と聖書の世界の奥へ奥へと進むことです。今日は、ダビデの祝福と試練の始まりを読んでいくこととしましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1. 器の小さいサウル
ゴリヤテを倒したダビデは一躍英雄となった。ただの羊飼いの若者が、王族の一員となっていく。イスラエルの女たちは歌った「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」ダビデの勝利からすれば当然のことであろうが、サウルには、この評価を適当に受け止める度量はなかった。サウルは「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ」と激怒する。サウルは、自分から人気が去ったことを意識したのである。少なくともサウルは、はじめイスラエルの誰からも愛され認められていた。ところが、彼以上に信頼を集め、認められる人物ダビデが登場するやいなや、サウルは猜疑心と嫉妬心の塊と化し、それはやがて殺意に転じた。
程度の差はあるだろうが、サウルの器の小ささは私たちと無縁ではない。一度自尊心が傷つけられて怒りが燃え上がってしまったり、嫉妬心が燃えてしまったりするならば、なんとも手がつけられない行動をとるものだ。問題は、自分の欠点や弱さ、過ち、起きてしまったことを、素直に認めて受け入れることができないことだろう。本当の自分はそうじゃないのだ、自分はもっと評価に値する人物なのだ、と思い続ける。現実的に自分がどういう人間であるか、ということを薄々感じていても、傷ついた心の故にそれを受け入れられないのである。自分の心の深奥、水面下を見つめ、本当の自分の姿をありのままに受け止めていけるかどうかが、人間的な成熟さを示している。
2.サウルの解決
サウルは、再び、ダビデの琴を必要とした。ダビデは、勇士ではなく琴弾きとして呼び出されている。しかし、ダビデは二度に渡ってまともに殺意をぶつけられている。サウルは、ダビデの隙を狙って壁に彼を槍で突き刺そうとした。また、娘を妻にする代わりにペリシテ人との争いをけしかけ、あわよくば彼を葬り去ろうとした。しかし、サウルがダビデを排斥しようとする一切の試みは、逆効果となるばかりであった。
それは、主がダビデとともにおられ、サウルとはともにおられなかった、からである。サウルはダビデを恐れ、ダビデの敵となり続ける他なかった。しかし、本来ならば、アベルを妬んだカインのように「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創世記4:7)という、神のことばを思い起こすべきであったのだろう。サウルは、神の聖霊を受けていた。預言者の一人に数えられたこともある。しかし、主と心を結び続けることのできない人であった。つまり、神がサウルとともにおられなかったのではなく、サウルが神とともにあることを求めなかったのである。
私たちにとっても大事な点である。なぜならヨハネも言うとおり、神の愛は、十字架においてはっきりと示されたのであり、だれでも主の名を呼ぶ者と共に神はおられるからだ。主の名を呼ぶ者は主の祝福を期待すべきである。自分が弱く思わされ、劣等感に襲われ、人をねたみそうになっても、そのために主に見捨てられることはない。むしろ、こんな私のために十字架の愛を示してくださった主を離れまいと心に決めることだ。「自分は神に見放されている」と思い込んでいるなら、決して新しい幸せな人生を始めることはできない。「神は私たちを幸せにしてくださる。愛する者に善を拒まれない」という確信を持ち続けることである。そして過去の嫌な出来事は進んで忘れる、つまらないことをうつうつと考える習慣はやめることである。いつもキリストにある新しい心の習慣、赦しと愛の心の習慣を育てていくことである。そして、なかなか身に付きにくいそのような習慣が自分の心の習慣となるまで、忍耐を持って、時を過ごし、神に教えられていくことである。そのための最もよい方法は、教会の集会に欠かさず出席すること、礼拝に出席すること、祈り会に出席すること、そして何よりも、1人神と良き時を過ごし、絶えず神の心に触れることである。今日も主に信頼しよう。