20章 ヨナタンと盟約を結ぶダビデ
<要約>
おはようございます。人間関係の問題はしばしば決裂に至り、決裂のままに、堪えがたい日々を過ごさねばならないことがあるものです。しかし、「人の意地悪に負けてはいけない」とは私の母のことば。負けてはいけないと思っても、もう耐えがたい、はダビデの心境。たとえそうであっても、主の愛を信じ、主の解決を待ち望み、主に寄りすがり続けることです、は、私の勧めです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ダビデの孤独
「しかしこの私はあなたの力を歌います。朝明けにはあなたの恵みを喜び歌います。私の苦しみの日にあなたが私の砦また私の逃れ場であられたからです。私の力よ私はあなたにほめ歌を歌います。神は私の砦私の恵みの神であるからです。」(詩篇59:16、17)
サウルに命を狙われた状況の中でダビデが歌った詩篇である。ダビデは苦難にありながら神を賛美した。しかし、賛美によって、ダビデの人生が変わるわけではなかった。むしろ、ダビデの人生は行き詰まっていた。サウルがダビデを殺そうとする意志は頑なで変わるものではなかったからである。
ダビデは、ヨナタンに助けを求めた。そこでヨナタンは初めて、ダビデとサウルの心の決裂を明かされる。サウルの子ヨナタンは、父の思いを全く知らずにいたのである。純粋に父のことばを信じ(1サムエル19:6)、ダビデにも愛情を示すヨナタンの姿が、凍り付くようなサウルとダビデの関係と実に不釣り合いである。だがこれも人間社会の現実である。
ヨナタンはダビデのことばに耳を傾けた。ダビデは新月祭でサウルとの食事を欠席するという。それは、ダビデがサウル家よりも自分の家族の先祖追悼記念を優先することを意味した。それは微妙に挑発的な行為であった。であるがゆえに、ヨナタンは父サウルの真意を確かめることになるだろう。
ただこの前半で、美しく思われるのは、ヨナタンのダビデに対する真実な思いだろう。彼はダビデと契約を結んでいる。ダビデが王位に付きサウル家を敵に回すことを既に予測し、そのような事態にあって、自分が死ななければならないとしても、自分の家族がダビデの恵みがあるように、と願っている。本来懇願すべきはダビデであるのに、ヨナタンが、懇願しているのである。それは彼が自分を愛するほどにダビデを愛していたからであった。後にダビデはこの契約を守り、ヨナタンの息子に栄誉を与え(2サムエル9:7)、その命を守っている(2サムエル21:7)。人間の愛に基づく契約がこのように守られるのであるならば、神の愛に基づく契約の確かさはどれほどであろうか。
2.サウルの怒り
さて、新月祭の食事が始まった。サウルの応答は、ヨナタンの予測を全く裏切るものであったことだろう。サウルは、「邪悪な気まぐれ女の息子め」とヨナタンに激高した。その意味は、「よこしまな裏切り者」という意味に等しい。サウルは、ヨナタンがダビデと深く結びついていることに怒りを燃やした。もはや、サウルはダビデとヨナタンを共に殺そうとするのである。ヨナタンは全てを悟った。ヨナタンはダビデに事の顛末を知らせようとする。しかしこれが、ヨナタンとダビデの永遠の別れとなっていくのである。
3.神の真実
20章は、「あなたの恵みを喜び歌います」と歌ったダビデの心の中に、実際には大きな不安と深い絶望があったことを教えてくれる。59篇のような詩篇を歌いながら、ダビデは、実際には、極度の圧迫下で、友人や神を信じられない状況にある。しかし、彼はヨナタンにひれ伏し、三度礼をした、とある(41節)。誠実に、ことばどおりに、物事を進めるヨナタンは、深い絶望の中にある彼にとっては一条の光、救いであったことだろう。ただ、そうであったとしても、物事が変わることはない。人知れぬ苦悶の中で朽ち果てていくように思われる中で、感じる恵みである。だが、その彼が自分に何かをしてくれるわけではない。心の片隅で恵を感じたとしても、それで物事が変わるわけでもない。自分の破滅は方向づけられているようであり、その思いをどうすることもできないことがあるものだろう。そのような時にどうしたらよいのか。ダビデは、サムエルに助けを求め、ヨナタンに仲裁を求めた。ただ、彼らが事態を変えることはなかった。そして神も、と思うべきところなのかもしれない。
しかしそうではない、なすべきことは、そこでさらに神のあわれみに寄りすがることである。ペヌエルのヤコブのように、「祝福なくば去らせません」と主にしがみ続けることである。ただ、主の愛を信じ、主の約束に立ち、主の救いを待ち望むことである。ほんのちょっとの忍耐を働かせて、あと少しと、神の約束に粘っていくことなのだろう。その粘りを欠いてしまうから、私たちは自ら破滅の道を選び取ってしまうのだ。主の助けを信じ、「あともう一歩」と自分に言い聞かせることである。
42節でヨナタンは「では安心して行きなさい」とダビデに勧めている。人の安心を考える、人の心が穏やかにされることを考えていく、それが人を大切にすることであり、愛することになる。しかし、大方私たちの現実は「人の安心」よりも「自分の安心」を考えているものだろう。愛の深さを持つことを教えられる1章と言える。