24章 ダビデの王位を認めるサウル
<要約>
おはようございます。ダビデが反逆する機会が与えられました。しかし、ダビデはその反逆を、ただ自分がサウルの忠実なしもべであることを立証する機会としていくのです。裁きも復讐も神のなさることでしょう。不当な扱いの中にあっては、全てを神に委ね、神がどのように事の顛末を結ばれるのかを見ていきたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.不思議なめぐり合わせ
エン・ゲディは、死海の西岸に位置する荒れ地である。そこにダビデが隠れている、とサウルは知って、3000人、つまり三つの精鋭部隊を従えダビデを探しに出かけた。サウルとダビデの力の差は歴然としていた。今度こそダビデの息の根を止める、そんなつもりだったのだろう。ダビデの包囲網は次第に狭まり、ダビデが捕獲されるのも時間の問題であった。しかし彼はダビデを見つけることができなかった。そうこうする内に、サウルは用を足したくなり、洞穴に入った。イスラエルの燦燦と輝く太陽の下から、急に暗い洞窟の中へと入ったので、目が慣れず、奥の様子はわからなかったのだろう。しかし、どういう巡りあわせなのだろう、その奥には、ダビデとダビデの部下が潜んでいたのである。息を潜めながらダビデの部下がダビデにささやいた。「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ。』と言われた、その時です」確かにそれは、サウルの執拗な追跡を断ち切る絶好のチャンスと思われた。しかしダビデはサウルを殺めることを拒んだ。
2.ダビデの思い
サウルに追跡された日々の、ダビデの思いは詩篇に綴られている。ダビデには賞金がかけられていた。見知らぬ者たち、横暴な者、荒くれ者が命を付け狙っていた。ダビデは謡う。「私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。(詩篇57:1)」執拗な追跡、長引く逃亡生活に、ダビデの心は疲れ果てていた。もはや何の希望も抱けずにいたことだろう。また謡う「敵が罠をしかけたので、私は言いようのない恐怖にとらわれています」(57:6:リビングバイブル訳)。神は何もしてくださらない、と嘆く思いであったのだろう。「憤りをもって滅ぼし尽くしてください。滅ぼし尽くしてください(詩篇59:13)」これほどの怒りに体を震わせながら、ダビデはサウルを殺そうとしなかった。また、「私は主に向かい、声をあげて叫びます(詩篇142:1)」という。声を上げて叫ぶ祈りを経験した人にはわかるだろう。声を振り絞って祈る、絶叫して祈る、追い詰められた時の祈りである。さらにこうも謡う「ご覧ください。私の右に目を注いでください。私には顧みてくれる人がいません。私は逃げ場さえも失って私のいのちを気にかける人もいないのです(142:4)ダビデは孤立無援であった。
極度の疲労、言いようのない恐怖、激しい怒り、絶叫の祈り、孤立無援、サウルに追い詰められたダビデは、人間以下、野獣のようであった。何とも悲しい人生である。ダビデは、手に刀を握りながら、今こそ、自分を悩まし苦しめてきた、サウルを一息に葬り去ることができる、そう思ったことだろう。しかし手をくださなかった。それは、殺意を抱き、憎しみを抱き、その上さらに人を殺してしまう悲しみと神から遠ざかる苦しみを重ねたくなかったからなのかもしれない。ダビデは謡っている。「ああ神様、いったいどこにおられるのですか。一滴の水もない、からからの荒地で、気も狂わんばかりに私は神様を慕い求めています。神の聖所へ行ってお力とご栄光を拝したいと、どれほど願っていることでしょう。私にとって神様の愛と恵みはいのちよりも大切なのです」(詩篇63:1:リビングバイブル訳)
3.ダビデの反逆
ダビデは何も知らずに去っていくサウルに警告を発する機会を得た。彼は上着のヘリの端を切り取ったのである。当時、これは不忠、謀反の象徴と見なされるものであった。ダビデはサウルに呼びかけた。そしてサウルが、ダビデの手の中にあったことを知らせるのである。ダビデには、サウルを殺す気はなかった。ただ自分の身の潔白を証ししたかったのだろう。ダビデは、サウルに間違っていることを語りかける。サウルは悟った。そして「わが父よ」と呼びかけるダビデが、合法的な自分の王位継承者であることも理解していくのである。
人の悪に対して、激しくやるせない思いになることはあるものだろう。しかし、神を愛して生きているならば、そういう思いに心が鬱積されること自体に苦しみを覚える。罪が心を支配することで、心が荒み、神からも遠く離れているように思われることが悲しい。ダビデがサウルに激しい思いを抱きながらも、サウルに手を下さなかったのは、神との関係の故である。ダビデは、目先の安堵よりも永遠の魂の平安を求めていた。サウルを殺すことで、神との関係が破壊するのだったら、そんなのはごめんだということである。
神との関係を大事にすることが魂を救うことになる。たとえ心をかき乱す不当な取り扱いがあったとしても、一切を神にゆだねることである。復讐は神がなさること、正しさを立証することも神がなさることである。何もかも飲み込み平然としていられる深い海のような心を持たせていただこう。