27章 ガテに逃れたダビデ
<要約>
おはようございます。隅谷三喜雄氏は、日本人の信仰は、二階建て信仰であると語っています。つまり、礼拝で教えられ、確信するところと、通常の生活とでは違う原理で生活をしている、というわけです。信仰の確信がいかに日常性の中に生きていくか、これは信仰の成熟の問題でもあるでしょう。信じたとおりに人生を歩んでいくことはなかなか難しいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ダビデの迷い
「【主】よいつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。」(詩篇13:1)
ダビデがこの時に書いた詩篇であると言われる。サウルに殺意を向けられ、執拗に追跡される辛さは、何と言っても、憎しみを向けられていることにあっただろう。なぜそれほど憎まれなければならないのか、疎まれなければならないのか、人の憎しみや悪意は、それを向けられた者の心を食い尽くし、心のエネルギーをすべて奪ってしまう。変わることのない敵意を向けられていることほど耐え難いものはない。
しかも、ダビデは二人の妻のほかに、600人の部下と彼らの家族を抱えていた。ナバルの土地によって彼らを食べさせていく可能性はあっただろう。しかし、ダビデを殺すと決意し、3000人の兵を引き連れて再びやってきかねないサウルから、彼らを守り続けることは、難しいものがあった。多くの責任と可能性を感じながら、自分の身を守るだけではない、共にいる者たちの生活をも守らねばならぬ状況にあって、「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。」という思いに圧倒され、もはや神の大どんでん返しを期待するなど、現実的には全くありえない状況であった。
しかしこれが信仰者の置かれる現実である。「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル11:1)とある通りで、まだ見ていない事実に向かって歩み続けることこそ、生ける信仰そのものなのである。生殖能力においては既に死んでいるアブラハムとサラも、その道を通らされたのであり、また、指導能力においても既に無能であったモーセも同じであった。神の大どんでん返しを期待しえないところで、いかに期待を持ち続けて、前に進むかどうかなのである。
2.ダビデの迷いの末
さてダビデはガテに逃げ、神ではなく、敵将の保護を受けようとした。結局、ダビデは信仰をもって前に進み続けたようではあっても、いささか中途半端で、神ではないものに寄りすがって、目に見える具体的な助けに寄り頼んでいく。ダビデもまた普通の人間に過ぎなかった。ダビデは、合理的に考えて最善と思われる道に進み、少なくとも1年半はサウルの追跡を恐れることなく、平和な時を過ごしていく。
しかし、それはまがい物の、偽りで塗り固められた平和に過ぎない。ダビデはサウルとの間に距離を置くことができ、しばらく平和な時を過ごしたが、実際には略奪で、家族と部下を養わなくてはならなかった。ダビデはそのような秘密が漏れることを恐れて、皆殺しの横暴を働かざるをえなかった。そして常に神を賛美する口でもって、偽りを語り、アキシュを騙さなくてはならなかった。たとえ敵に対してであっても、神の御前で聖さを求め、神を賛美する者が、同じ舌で、偽りを語るのである。ただ、ダビデ自身がその倫理的な破綻に悩んでいたかどうかはわからない。彼の心の平安は完全に破られたのではないか、と思われる状況ではあるが、ダビデのそのような心を明かす詩篇はない。むしろ、この時期の詩篇には、霊的なアップダウンの中で、最終的には神への期待が語られる。どうしたのだろう、と思うところだが、考えてみれば、ダビデはそのような虫けらのような罪深い人間に対する神のあわれみ深さを思うことによって、ただ神に感謝せざるを得ない、ということもあったのだろう。
というのは、この時、ダビデはもはや、サウルの率いるイスラエルから独立した勢力として、ガテの王アキシュとの同盟関係を強めようとしていた。ダビデはアキシュにツィケラグの領地をあてがわれたが、それはもともと、ユダの町として登録されていた町である。それまでその町は決してユダ族によって占領されたことも、ペリシテの土地であったこともない。だが、不思議な摂理の下、ダビデはそれをイスラエルの土地とすることができたのである。そして、さらにダビデは、最南の地に住むイスラエル人たちと関係を築いていくことになる。中途半端な信仰の故に、合理的に行動した結果にも神の恵みがあることを覚えるならば、ただ自分の愚かさと自分の無力さの中で、その矛盾に悩みつつも、ただ神に感謝し、神のあわれみに続けて寄りすがるという思い以外にはなかった、ということである。
しばしば、私たちの人生には、信仰に立つということが、自らの力を超えたことである状況に置かれる。神は、人選を間違えたのではあるまいか、こんな私を引っ張り出し、私の手には負えない働きを負わせようとしている。否、私が神の御心を読み間違えて、全く検討違いのことに首を突っ込んでしまったのではあるまいか。だから、今まではなんとかやり過ごせたがこれ以上は、状況が悪くなるばかりで、もう手には負えない。ここで、すっぱり足を洗って、別の道に進むべきではないか、そんなふうに考えてしまうことがあるものだろう。私たちは、心の中で自問自答し、最終的には自分で答えを定めようとしてしまう。しかし、そうではない。自分ではなく、まして他人の助言にでもなく、神にこそ答えを求めていく必要がある。ひざまずき、祈り、主が語られるまで待ち、神がなさろうとしていることを見定めていくことなのだ。耐え難い試練の中で、敢えて神の言葉を待つ信仰の高みへと引き上げていただこう。