30章 主にあって奮い立つ
<要約>
おはようございます。創世記のヨセフもそうでしたが、泣きっ面に蜂、重なる災いと言うものがあります。ダビデも、神がおられるのなら、どうしてこんな不幸続きなのか、と思わされるところを通らされています。しかしそこでダビデは、主の誠実に信頼し、主にあって奮い立ったのです。そして主は真実でした。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.支援者に見捨てられるダビデ
ダビデにとっては、最悪の事態が生じた。サウルと戦う危機から守られたと思った矢先、ツィケラグに戻ってみると、暖かく出迎えてくれるはずの家族は皆、捕虜とされ連れ去られ、町は焼打ちにされていた。悲痛な思いに圧せられたダビデの従者たちが、ダビデに怒りを燃やし、ダビデは足元からその存在を脅かされていく。
人生は複雑である。しばしば理解しがたい展開となることがある。そもそもの発端は、サウルの妬みにある。質の悪い上司に憎まれただけのこと。そのような破壊的な妬みと憎しみにさらされたら誰でも自分を守ろうと必死になるはずだ。だから孤軍奮闘の中で、自分の側に立って支えてくれる人が起きることは慰めであり、励ましとなる。しかし、それが、そのような支援者からも見捨てられていく、さらには攻撃されていくという、絶体絶命の窮地に立たされている。このようなことは、人生に起こりかねないことである。
しかし考えてみれば、土壇場において弟子たちに見捨てられ、さらに、十字架において神にまで見捨てられたイエスを思えば、ダビデの混迷もまだ序の口であろう。彼は神には見捨てられることはなかったのだから。
2.ダビデの解決
ともあれ、敵のみならず身内にまで攻撃されるような、絶体絶命の窮地に立たされたダビデはいかに、その危機を乗り越えたのか。「ダビデは大変な苦境に立たされた」という。そして彼は、その苦悩の中にあって、「自分の神、主によって奮い立った」という。実に、神が私たちを見捨てられることがないのであれば、どのような苦境においても命ある限り希望はある。主によって奮い立てるか否かが問題なのだ。ダビデはこの苦境にあって、神を恨んだり、毒づいたりするのではなく、むしろ神に信頼し続けた。ピンチはチャンスと言われるが、それはまさに神の誠実を覚え、神の御業と栄光を仰ぐチャンスである。ダビデは祈っている。「私の心の苦しみが大きくなりました。どうかこの苦悩から私を引き出してください。」(詩篇25:17)。
ダビデは、主に伺った。そして主の指示に従って、すぐさま、全兵士を引き連れて追跡を開始した。しかし、その行軍についていけない者たちが生じた。実際、南部の砂漠地帯を旅するのは、疲労を増し加えるのみならず、あてのない追跡になりかねなかった。おそらく、ダビデの一行が、たまたま、瀕死のエジプト人を見つけることがなかったなら、アマレクの略奪隊を探し当てることもできなかったかもしれない。
ともあれ彼の道案内のおかげで、アマレクの陣営を発見することができ、らくだで逃げた400人を除いて、彼らを皆殺しにし、すべての捕虜や略奪品を取り戻すことができたのである。ダビデの危機は回避された。
3.主の助けを受け止めるダビデ
帰途、ベソル川で残された者たち、つまり疲れて戦いに参加できない者たちと合流した。行軍の途中で脱落した彼らに、戦利品の分配を拒否する声があがった。ダビデが裁可を振るっている。この戦闘の勝利は主によるものであると、ならば戦利品は主のものであるし、主がこれを聖絶するのではなく与えてくださるならば、戦場で戦った者も、後方の陣営で荷物の番をしていた者も平等に分け与えなくてはならない、という。まさに、自分の力ではない神の恵みで回復されたことであるなら、それは恵みとして受け止めなくてはいけない。また、ダビデは、同じように略奪にあっていたユダの人々を忘れなかった。ダビデは、ユダの人々に、主の敵からの戦利品の一部であるとして、ユダの長老たちに贈り物をする。ダビデが私腹を肥やそうとはせず、補償を考えたことに注意すべきである。私たちを守るのは、正しい信仰と良識である。常に良識を働かせ、主に与えられたものを与えられたものとして活用する者であること。そのようにして神の助けと守りを得、神の真実さを味わって生きる者とさせていただこう。