6章 神の箱の返還
<要約>
おはようございます。ペリシテに災いをもたらした主の契約の箱が、イスラエルに戻されて行きます。しかしイスラエルの民はこの契約の箱をどのように扱ったらよいのかわからず、またそれを指導する指導者も起こされていませんでした。サムエルが登場するのに、まだ20年時が費やされるのです。しかしそれは少年サムエルが成長し、サウルやダビデが王として準備され、イスラエルの民が神を慕い求めるに必要な時であったのでしょう。霊性が深められるに必要な時があると言えます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ペリシテ人の検証
災いをもたらした主の箱は、ペリシテ人を悩ませた。そこでついに彼らは、これをイスラエルの陣営に返すことを決意する。しかしただ返すのではない。彼らは事の真偽を定めようとした。一台の新しい車を仕立て、くびきをつけたことのない、乳を飲ませている二頭の雌牛をとり主の箱と罪過のためのいけにえとして返す金の品物を一緒に引かせようとした。もし雌牛が、本能に逆らって引き離された牛小屋に囲われた子牛を残して、ベテ・シェメシュに上って行けば、大きな災いを起こしたのは主の災いであったことを確認することになるし、そうでなければ「偶然」に起こったと思えばよいという。
すると、雌牛は、エクロンの南東、ユダの領地ソレクの谷に位置しているベテ・シェメシュへの道を、真っすぐに進み続けたという。子牛を離れるはずのない雌牛が、右にも左にも曲がらずにイスラエルの陣営を目指して進み続けたところに、ペリシテ人は、神の介入をはっきりと見て取ることができた。こうして彼らはこの地を荒らしたのは、イスラエルの神に栄光を帰さなかったためであったことを悟っていく。
だが興味深いのは、ペリシテの五人の領主たちこれだけの検証をしながら、神の災いは認めても、その神を信じようということにはならなかったことだろう。エジプト人とパロがそうであったように、神の災いにあっていると思いながらも、それとこれとは別、であるかのように、神を受け入れることにはならないのが人の現実である。そこに人の不信仰で的外れの姿がある。
2.ベテ・シェメシュの人々の悩み
さて、ベテ・シェメシュの人々は、神の箱が戻ってきたのを見て喜んだ。小麦の借り入れをしていたのだから、時期としては5月から6月にかけてのことである。彼らはそこで、主にささげものをし、雌牛を全焼のささげ物として、ささげたという。
しかしベテ・シェメシュの人々は主に打たれた。箱の中を覗いてしまったからである。19節。主の箱の中を「見た」は、「不敬な好奇心で見た」ことを意味するという。これは死刑に値するものとして、禁じられていた(民数4:19,20)。ただ、ベテ・シェメシュは、レビ人の町であったので(ヨシュア21:16)、なぜ、こうした律法に反する行為を注意する祭司が一人もいなかったのかが、不思議である。またサムエルもこの事件に介入していない。サムエルは完全に表舞台の背景に退いているのである。
人間の誰が主役になるのでもない、ただ、神の臨在の象徴である神の箱の物語が、書き連ねられている。ベテ・シェメシュの人々は、この出来事に恐れ、神の箱を、キルヤテ・エアリムにたらい回しにしてしまった。神を信じないペリシテ人はおろか、神を信じるユダヤ人もまた、自分たちのところから主の契約の箱を去らせようとした。これ以上災いが起こってはならない、と考えたのであろう。そしてキルヤテ・エアリムの人々も、神の箱をそのまま、20年も放置していた。
3.神が働かれる時
だがイスラエルの民は神を慕い求めていた(7:2)。英語訳聖書では、「求めて悲しんだ」あるいは、「悲しみ、求めた」とある。人々は、契約の箱は臨在の象徴であって、神そのものではないことを理解する時間を過ごしたというべきだろうか。イスラエルの民は、何かがうまくいかない、心から目に見えない神を慕い求める状況へと置かれていくのである。人の霊的な歩みは決して、一朝一夕のものではなく、時間をかけて進んで行く。イスラエルが真の悔い改めと献身へと導かれるために、神が時を流されることがある。好戦的なペリシテ人が、20年イスラエルを攻めることがなかった。それは、少年サムエルがリーダーシップを担い、さらにサウルやダビデが興されるに必要が時であったのだろう。そして、神が、人々の心をご自身に向けて、神を求め悲しむ深みを与えられる時が必要だったからなのだろう。全てが神のあわれみと恵みの中で起こっていることであり、神が時を与え、私たちに勝利を与え、悔い改めを与え、また神を慕い求める気持ちを育ててくださる。今日も、主が一人一人を神に近づけてくださるように。そして荒廃した地に主の癒しを、あるいは祝福にさらなる祝福を受けさせていただこう。