7章 指導者サムエル
<要約>
おはようございます。神を信じるという行為が、唯一まことの神に心を定め、その神に心を集中することに他ならないのですが、しばしば、私たちの現実はそうではありません。神を呼び求めながら、身近な人間を頼りにし、また身近な偶像に心ひかれているところがあります。天地創造の神、十字架の愛の神をのみ認め、その神に期待する者でありたいものです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.唯一まことの神を認めていく
「イスラエルの全家は、主を慕い求めていた」(2節)。自分たちの身に起こる不幸や、敵の脅威によって、人々は、神に心を向けるようになった。それまで、誰もサムエルに語られた言葉を聞こうとしなかった者たちが、こうしてサムエルの神に立てられた権威を認め、その言葉を求めるようになったのだろう。それはちょうど、バビロン捕囚後、誰もそれ以前は耳を傾けようとしなかったエレミヤの言葉に聞くようになったのと似ている。イスラエル人たちは、サムエルに助言を求めた。サムエルは、語る。「もしあなたがたが、心のすべてをもって主に立ち返るなら、あなたがたの間から、異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい。そして心を主に向け、主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出してくださいます」(3節)
主を慕い求めたイスラエルの人々に、サムエルが語りかけたことは、心を尽くして主に立ち返るとするなら、まず、異国の神々を取り除くことである、という。イスラエルの民は、バアルとアシュタロテを取り除き、ただ主にのみ仕えたという。アシュタロテは、カナン土着の宗教で、豊穣、恋愛、戦争の女神として広範な地域で崇拝されていた。
日本人の家には、神道の神棚があり、佛教の仏壇があり、おまけに新興宗教の飾りも並べられていたりする。つまり宗教的には混交主義であり、ありとあらゆる神が味方であれば安心と考えるところがある。しかし、聖書は、神々は多くあれど、信じるべきまことの神はただお一人である、という。この天地には、信じるべき神は、木や石などで作られた偶像の神ではなく、それらの材料となる被造物を生み出し、それらを作る人々をお造りになった天地創造の神がただお一人おられるだけであるという。
6節「私たちは、主に対して罪を犯しました」というのは、まさにこの神を認めない罪を言っている。天地創造のまことの神を認めず、様々な偶像を家に持ち込んで、それらを拝み、それらに助けを求めていることである。イエス・キリストを信じている、聖書の神を信じているといいながら、おみくじ引いてみたり、雑誌の星占いや今月の運勢、そういうものを見て、ああどうしようとか心惑わされたり、というのは、実際に唯一まことの神を認めていることにはならない。それこそが罪である。聖書の神を信じ祈るならば、そういう心を一切取り除き、100%聖書の神様に心を向け、この神様と共に生きるという心を持つことが大切なのだ。
2.味方となった神
ミツパは、現在のテル・エン・ナシュベであり、ベニヤミンの領地、エルサレムの北方8キロメートルの所に位置する。その言葉は「見張り塔」を意味するが、まさに戦略的に眺望のきく要衝となった場所である。逆に、そこで動きがあれば、遠方からも知られる場所であった。おそらく、BC1100年頃、イスラエルがカナンに入植した時に、建てられた町であり、士師の時代には、イスラエルの混乱を治めるために全部族を集める集会が持たれたり(士師20:1)、エルサレム陥落後に首府とされたりした場所である(2列王25:23)。サムエルはその場所に全イスラエルを集め、祈った。イスラエルの結集は、ペリシテ人に知られることになり、ペリシテ人は、先制攻撃を仕掛けるために登ってきた。
だが、先の戦争がそうであったように、イスラエルの戦力はひ弱で、ペリシテの攻撃には明らかに耐えられない状況があった。さて、そのように偶像を捨て去ったイスラエルに、ペリシテの領主たちが攻め上って来た。イスラエル人は恐れサムエルに向かって叫んでいる。「私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください。主が私たちをペリシテ人の手から救ってくださるようにと」(8節)。まさに神に100%頼るのであれば、このように「主に叫ぶのをやめない」ことが大切になる。主に叫んで、主に答えていただくことが大切なのである。
しかしどうも、現実的にただ主に叫んで主に答えていただく信仰に至っている人は少ない。主に叫びはするが、自分の努力も続けていることがある。あるいは、主の答えをいただくところまでには至らないで終わってしまう人も多い。そして神様は何もしてくださらないという感じを積み重ねながら、実質聖書の神も当てにできない、と逆の思いを抱きながら信仰生活を惰性的に続けていることがあったりする。しかしそれでは、信仰を持った意味がない。神を信じることは気休めではない。彼らに勝ち目はなかった。彼らは主にすがる他なかった。だから、彼らは、サムエルが主に向かって叫ぶことに期待した。そして主は答えられた。この戦いも、主の雷鳴という奇跡的な介入により勝利に導かれることになる。実に、主が介入されるがゆえに勝利することがある。
3.主の介入を忘れてはならない
サムエルは、一つの石をとり、それにエベン・エゼルと名付け、「ここまで主が私たちを助けてくださった」(12節)と言った。これほど明らかに主の介入があったがゆえに勝利したことについては、決して忘れてはならないのである。主の助けにより、彼らは、ペリシテの支配から解放され、ペリシテに占領されていた土地を回復し、さらに、ペリシテ以外のアモリ人、つまりカナン土着の人々とも平和を維持することができた。サムエルの権威も確立され、サムエルが巡回宣教師となって、イスラエルを指導し裁くようになった。これらの場所が聖所であったことからも、彼が行った中心的なことは礼拝の回復であったとされる。まことの神を認め、神にイエスにあって礼拝をささげ、神に頼り切った人生は、神に守られ、神に祝福された人生を生み出す。一つの記念石を取り出し、自らの体験を確認する現実性を持つ。神を信じる以上、神にあって勝利し、神の恵みを味わうことが大事だ。今日も、神は守ってくださる。今日も主が支えてくださる。主に叫び、主の答えを確かに積み重ねる歩みをさせていただこう。