9章 最初の王サウル
<要約>
おはようございます。日々、日常性の中に神の導きやご計画や意志を感じつつ、歩むことが私たちに求められていることなのでしょう。神の存在を信じることから、さらに神の御心を知り、その御心に沿って生きる、これが信仰の本質というべきものです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.日常の出来事と神のみこころ
イスラエル最初の王サウルが導かれ、選ばれる経緯が記録される。サウルの父キシュの雌ろばがいなくなった。サウルは、父に頼まれて、雌ろばを探しに出かける。しかし、それは、神が「あすの今頃、わたしはひとりの人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす」というサウルをサムエルに出会わせる神のご計画であった。
しかしなぜ神は、このような面倒なことを仕組まれたのだろうか。単純に、サムエルに、最初の王サウルの正体を明らかにし、彼の元に遣わし、即位宣言をさせればよかったのではないか、とも思う。サムエルは最初の王が誰であるかを知らず、サウルも自分が初代の王と選ばれていることも知らずに、サムエルの所に導かれるのである。
ただ考えてみれば、信仰に生きるというのは、神の見えざる手に導かれた生活を送ることに他ならない。私たちのなんの変哲もない日常性の中に、明らかに神の導きがあるのであって、神と共に、その導きを生きることに他ならない。ただ、基本的に、私たちには日常的な事がらを霊的に見る感性に欠けているのが現実である。だから、信仰を持ったからには、神の支配が生活のあらゆる領域に及び、私たちの身の回りに起こることは、全て会社で起こることも、家庭で起こることも、一つ一つ偶然ではないことを理解し、全てに神の導きと支配があり、全ては神が私たちに持っておられる将来のご計画に繋がって動いていることを見抜いていく力を養わなくてはならないのである。雌ろばがいなくなったということが、サウルを初代の王とするための神のご計画であったように、日常性の中に、神の業はなされていく。
だから、神の事柄は教会で起こることだけ、と霊的なこと、俗的なことを分けていると、私たちの信仰は育たない。教会では、礼拝したり祈ったり、神のことばに耳を傾けたりと霊的に営むが、会社に行けば、そこは競争と戦略と、人間的、世俗的な営みである、と分離しているようでは、神の声を日常の中で聞いていく人生にはならない。信仰を持つということは、毎週日曜日の礼拝や聖書を読み祈る習慣を付け足す程度のことではない。それは、自分の人生を、神を中心に再構築することであって、生活の隅々にまで、神の支配を意識し、神の恵みを味わい生きていくことに他ならない。
2.神の不思議なる召し
サウルは父の心を思いやり、初対面のサムエルに贈り物を心配するなど、常識感覚のある人のようではあったが、霊的な感性には乏しいところがあった。しかしそんなサウルが王とされるように助けられるために、神は一人の若い者を用いてくださっている。若い者は神の人サムエルを知っており、サムエルへとサウルを導くのである。私たちも同様に霊的な弱さがあるかもしれない。しかし、神は私たちをご自身の器として選び、私たちにご自身の働きをさせようとしておられる。私たちは、「つまらないもの」と自分を思うかもしれない。まして、突然人生に降りかかった新しい先行きの不透明な展開は、神の偉大なご計画とはいえ、恐れをなし、自分には全く不釣り合いな事態であると思うかもしれない。しかし、神のご計画は確実に始まっており、それは止めることはできなかった。もはや、サウルは従うのみであったのである。サウルと従者は、高貴な客人として迎えられた。
神のなさることは不思議である。神は、私たちの思うようなシナリオを描くことはない。この世の中ではあり得ないと思うようなことを、なさるのが神であるし、そこに、私たちの希望もある。そして、神は、私たちの不足を補って、ご自身の偉大なご計画を進められる方である。そして日常のあれやこれやに、神の意図がある。礼拝や祈りという宗教的な行為だけに神の意図があるわけではない。生活の一切に神の導きを感じる感性を持って歩みたいものである。