19章 サウルとの決裂
<要約>
おはようございます。なかなか、深さのある所ですね。読めば読むほどに、主の霊が働くということへの、不可解さと不可解さの中にありながら、信頼を置いていくことの大事さというものを教えられて行きます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1. 命を救われるダビデ、ヨナタンとミカル
神は人格を有している。人の業に喜びもし、悲しみもする。イスラエルの栄光である方は、祭壇の向こうでただ鎮座しておられるようなお方ではない。まさに人と心を交わし、喜怒哀楽を共にするお方である。神をそのように理解し受け止めていく、信仰的な成熟が進んで行かない限り、私たちは信仰を持ちながらも、とめどなく形式的な信仰と、世俗社会と変わらぬ人間ドラマの人生を歩む他はない。
事実、サウルは、嫉妬心に駆られ、ダビデを敵視し、ただダビデを殺すことに夢中になっていくのである。彼の頭にも心に、生ける神はない。サウルは、家族を巻き込んで、ダビデを殺そうとしていく。
パスターズスクール(牧会喜塾)で教えていることであるが、衝突には、五つの段階がある。人間の衝突には、を正当化し、さらに執拗な復讐心へとレベルが上がっていく。こうした衝突のレベルが上がる前に、自分の考え方を修正していくことが大事になるのであるが、しばしば罪人である人間は、そのようには考えないものだ。
6節、「サウルはヨナタンの言うことを聞き入れた。」この時点で、サウルはまだ抑制が効いていた。だから、ヨナタンの理路整然としたとりなしにより、サウルは自分の思いが行き過ぎていることに気づいて、関係を回復しようとしている。ダビデも宮廷に戻ることができた。しかしそれは、あくまでも一時的なものであった。人間の心というものは、そんなに容易く修正されることはないのである。
8節、再び戦いが起こった、とされる。著者は、どこでどのような戦いが起こったかについては関心がない。ただ、著者はこの戦いの結果によって、結局、サウルの嫉妬心が再燃したことを語ろうとしているのである。しかも注意を促されるのは、後半特にそうなのであるが、この狂気の状況に、主の霊の働きがあることである。
ダビデは再び、サウルに息の根を止められるところ、その間一髪を逃れていく。そしてもはやダビデは、二度とサウルのもとに戻ることはなかった。
2.匿われるダビデ、サムエル
ダビデは、この追い詰められた状況で、助けを求めたのはサムエルであった。サムエルは、ギブアから歩いて1時間のラマに住んでいた。彼はひっそりと暮らしていたのではなく、そこで預言者学校を営んでいたようである。サムエルはダビデを受け入れ匿った。
サウルが追跡し、ダビデを捕獲しようとする。しかし、彼の派遣部隊は、そこで、先の霊の働きに次々と捕らえられていくのである。終いには、サウル自身が自分から出かけていくはめになり、同じように捕らえられた。彼は激しい恍惚状態に陥り、24時間無意識ので裸のまま倒れていたが、預言をしていた、という。一帯これは何を言おうとしているのだろうか。
主の霊の働きが、サウルとダビデの関係を裂き、同じ主の霊の働きが、ダビデを殺めようとするサウルに待ったをかけ続ける。しかもカルト的な現象に陥った記録、何の意味があろうかと思わされるところではないか。こういうことがあるから宗教は気味が悪い、と思わされるようなものであるし、そもそも、意味不明にすら感じるところである。
ただ、人間不思議なことに、時を重ねなければわからないこと、うまくかみ合わないことというものがあるものではないか。もう10歳若かったら、と思うものの、果たして10歳若かったら、今思うような行動をとっているかというと決してそうではない、ことがある。つまり何者かによって時が稼がれなければ、ちょうど良いことが起こらない、ということがあったりするものである。
ダビデは、抜擢されたか、と思ったのも束の間、自らの命を守る逃亡者となっていく。ダビデが繁栄を極めていくのはサウル王が死んだ後であるが、ダビデにそれは必要な時代であった、と言っても、この時期のダビデは納得しなかっただろう。いわれ無き濡れ衣を着せられ、誤解に誤解を重ねられ、全く評価もされず、足蹴に放り出され、むしろ潰されていくかのように思われる時代があった。
こういう時に、人は先が見通せないからこそ、辛さがある。だから普通は、もうこれ以上耐えられないと思ってしまうものだろう。しかし、著者が「主の霊」がと語るところに注意せねばならぬ。私たちの主は善き方である。どこまでも神は、私たちを善きに導いてくださると信じなくてはならない。運が悪い、運がよいというのではなくて、人生にはありとあらゆることが起こったとしても、必ずや帳尻を合わせてくださるお方である、と。ヨブの言い方で言えば、私たちは神様から祝福を受けるのだから災いをも受けなくてはならない、と言い切るぐらいに豪胆な人間でありたいものだ。一々、自分の身に起こる不幸に驚いてはならないのである。不幸を不幸として受け止めてもなおこの先に、神様の祝福のご計画があると考えてよい。
確かなところ、逃亡者のダビデには、助け手が与えられた。しかしそれは、神がつくってくださった逃げ道である。問題を抱え込みながら、その問題に耐えていく時を過ごすための逃げ道であって根本的な解決ではない。しかし神は、ある時、つまり根本的な解決が来るまで逃がし続けてくださる。神は、ヨナタンにダビデをいつくしむ心を与えられた。またミカルに追い詰められたダビデを救う心を与えてくれた。ダビデの居場所がわかられた際にも、神は、追っ手に混乱を与え、ダビデが失われないようにしてくださった。かつて王としての召しを確信させた預言の霊は、今や、混乱を与え、行く手を阻む霊となったのである。神の御計画は、神ご自身が守り導かれる、ということを意味しているのだろう。
ともあれ、苦しいことがあっても、慌てずに、神がそれをどうおさめられるのかがわかるまで、待つことなのだ。主の御計画が決定的に見えてくるのはまだ先のことである。