1列王記10章

 

1列王記10章 シェバの女王とソロモン

<要約>

おはようございます。イースターが明けて、主の復活の恵みを覚えた新しい日を感謝します。しかしながら、イスラエルではまだ過越の祭りの真っ最中。もし、興味のある方がおられたら、二子玉川聖書学院で行われる過越の祭りセミナーへぜひおいでください。(⇒過越の祭りセミナー案内:https://thousandtimesbless.com/?page_id=1546)過越の祭りがベースになって、キリストの復活のメッセージもあるのですから、過越の祭りをよく理解しておくことも大切です。それでは、今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.シェバの女王とソロモン

ソロモンの知恵のすばらしさは、多くの国々の注目を集めた。ソロモンの噂を聞き、シェバの女王がソロモンを訪れた。交易を目的としたものだったのだろう。シェバの女王が語る。「なんと幸せなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことができる、このあなたの家来たちは。あなたの神、【主】がほめたたえられますように。主はあなたを喜び、イスラエルの王座にあなたを就かせられました。【主】はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義を行わせるのです。」(8,9節)ソロモンの知恵の素晴らしさは、ソロモン自身のためではない。既に述べたように、ソロモンの知恵は主に授けられたのみならず、それは、ソロモンを通してイスラエルに祝福が及ぶためであった、という。つまり、イスラエルのためにこそ、神はソロモンに知恵を与え、それを用いるように祝福されたのだという。アブラハムへの契約を思い出すところだろう。アブラハムは、言われた「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創世記12:3)。実に、私たちが受ける祝福は、私たちを富ますものでありながら、それに留まらない。私たちを通して、皆が祝福されるのである。そのようなビジョンのあるところにこそ、神の祝福も豊かに注がれる。

2.積極的に善を行う人生

人に賜物が与えられ、特別な地位や特別な恩恵が与えられるのは、それはその人の富に留まらず、神の民にその祝福が分かち合われるためである。人は、何もかも自分のものとして吸収しやすいし、自分を中心に物事を考えやすいが、才能も、賜物も、所有もみな、自分のためではない。神がご自身の民を愛されているからこそ、私たちにそれらが与えられている。

クリスチャンになったら、古い肉の発想から卒業したいものである。パウロは言う。「ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。」(ガラテヤ6:10)信仰の家族の人たちに善を行うなどと、クリスチャンになる以前は考えたことなどないのではないか。良い人間関係は保っておこうとは考えるかもしれない。しかし積極的に善を行っていく、人間関係を築き、物事を建てあげていくように関わっていくなどとは考えなかったりする。

自分にとって教会とは何なのか、改めて考えてみる必要があるのではないか。自分に利益がある限り、教会につながっている、そういう在り方を多く見受ける。何か教会につながることが自分にとって不利益があり、不便さがあり、苦痛があれば去る、そんなことがあったりする。しかし、教会は家族である。自分に不利益があっても家族が立ちゆくことを考えるのが、本当である。

自分が今、神の民に加えられているのは、そして自分が祝福された位置にあるのは、教会が祝されるためであると考えることができれば、成長の証だろう。また逆もしかりで、自分が教会に所属することで不利益を被ることがあっても、自分の立場や財力が疲弊されるようなことがあっても、どんな苦労も一緒に乗り越えよう、と神の家族を愛することを大事にしたい。ヘブルの著者は言う。「信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。」(ヘブル11:23-25)モーセは、自分の持てる賜物と才能、また地位を、神の民と苦しみを分かち合うことのために用いた。しかしそうであればこそ、偉大な出エジプトも可能だったのである。自分のことばかりを考える人生に神による奇跡はない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください