13章 神の人の預言と死
<要約>
おはようございます。ヤロブアムとレハブアム、よく似た名前です。ヤロブアムは、「民は増す」を意味し、レハブアム「民は増え広がった」を意味します。確かに似ています。ソロモン王の後増え広がったイスラエルを継承したレハブアムと、新しい新興勢力となった、ヤロブアムの違いをよく象徴することばです。しかしながら、増え広がらせる、神の存在にこそ、私たちは心を向けなくてはなりません。それでは、今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.神の言葉の確からしさ
無名の預言者が、神のことばを受け、ヤロブアム王にこれを伝えた。伝えられた預言は、300年後、ヨシア王の時代に実現することになる(2列王23:15-20)。この預言者は、ヤロブアム王の脅しにも、また懐柔にも屈することなく、淡々と使命を果たし、帰途に着いていく。ところが、そこに現れた年寄りの預言者に騙されて、彼は重要な使命を最後まで果たすことなく、自らの預言どおりに滅びてしまうのである。
この物語を一読し、神の人が騙されて哀れな結末を迎えたことに対し、なんとも痛ましい、腑に落ちない思いすら、してしまうのだが、ベテルの年寄預言者が求めていたのは、神の言葉の確かさであったことに注意すべきなのだろう(30節)、この事件を通して、この神の人のことばが、まことに神からのものであることが証明された。「あの人が主の命令によって~呼ばわったことばは、必ず成就するからだ」(32節)と年寄預言者は結論した。
そして神の言葉の確かさは、他人に対するものではなく、何よりも自分自身に対する確かさでもある。だからたとえ誰がなんと言おうと、そこに固執すべきだったのであって、再び自ら確かめることなく、たとえ同業者であろうが、他人の甘言に耳を傾けた神の人に裁きがくだったことは当然のことなのである。
死体が葬られないままに放置されたということは、呪いを意味した。家族から離れて、見知らぬ者達の間に葬られることは不名誉なことであった。また獅子が死体をかき裂きもせず、騾馬に爪を掛けもしなかったのは、神の人としての身分を示すしるしとされた。
問題は、そのように、神の言葉に向かっているかである。神は、私たち一人一人に語られるのだから、神が語られたという確信を持ち、そのことが何らかの形で揺るがされることがあるならば、自ら再び神の前に出て、神のみこころをとことん確かめていく心が必要なのだ。
2.自ら神に向かう
人は神のことばを直接的にではなく、間接的に聞いていることが多い。いつでも、朝毎に聖書に向かい、神の声に心を集中させ、神に直接語られることよりも、信仰図書を読んで満足している。あるいは、信仰の友のことばに耳を傾けて、よしとしていることがある。しかし、実際のところ聖書そのものに向かい、もっと直接的に神の声を聞く、そのような訓練を自分に課していく必要がある。そして私たちが自ら神の言葉を聞くということは、もう牧師すら必要ではない、ということではない。私たちは毎週牧師を通して礼拝の説教を聞くことにより、神のことばを聞くとともに聖書の読み方を訓練されているからである。聖書を全体の流れの中で偏りなく読む訓練を受けているのでもある。
そのような訓練の中で、じっくり自ら聖書を味わい読みながら、私たち自身に対する神のみこころを知らされること、御心に従うことが大切なのだ。
2.ヤロブアムの応答
だが私たちの心は罪深い。それほど明らかに神の言葉が示されながらも、ヤロブアムのように、神の言葉を軽んじ続けてしまうものである。ヤロブアムは神の言葉に耳を傾けないだけではなく、自ら資格無き者を祭司に任命した。彼は「だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした」(33節)とある。彼の罪は、アダムの罪と同じで、神にとって代わることにあった。神よりも自分を重んじ、自分の宗教を作ったことにある。そこに神が、ヤロブアムの家を、地の表から根絶やしにせざるを得なくなった、神の裁きの根拠がある(34節)。
神のことばに聞き、従うことは、それほど容易なことではない。それは、真面目な努力を要するものである。もし、日本の信仰者が、単純に集会を歩き回るのを辞めて、それぞれの所属教会の礼拝を大事にし、じっくりと自ら神と交わり、自分の置かれた場にあって神のことばに従う歩みを検証するごとく、考え抜き、神の言葉に立つ務めを大事にするならば、日本の教会の宣教は、一層進むのではないかと思う。多くの集会に集い、燃やされることよりも、神の御言葉に憩う余裕こそが、本当は必要とされているのだろう。神のことばに聞き、神の宣教の使命に生きる訓練、これを今日も自らの内に課していくこととしよう。